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全国の空襲被害者と連帯します―― 空襲被害を考える会

終戦の前日、京橋駅を襲った空襲experience of air raid

―― 遺体を運んだ女学生の体験 ――

    終戦前日の8月14日、大阪の京橋駅が空襲を受けました。多数の遺体を運んだ女学生の壮絶な体験談です。

語り:山崎稲子さん

女学生として「学徒動員」へ
 昭和20年、15歳だった私は、四天王寺高等女学校(今の四天王寺高校)に通っていました。旧制の女学校です。男手は兵隊に取られたので、町には若い男性の姿は少なくなりました。そのため、学校の授業を中止して生徒を工場などで働かせる「学徒動員」が行われました。
 私は、国鉄城東線(今のJR環状線)の京橋駅へ学徒動員され、改札・出札・駅名連呼などをしていました。

  
  山崎稲子さん(2005年8月撮影)

◆ 京橋駅の空襲で、防空壕に逃げ込んで
 昭和20年(1945年)8月14日も、いつものように京橋駅のホームで仕事をしていました。そのとき、飛行機の音が聞こえてきました。いつもなら、敵の飛行機が近づいたら空襲警報が鳴るのに、この日は鳴りませんでした。B29というアメリカ軍の飛行機が、たくさん飛んできたのです。グオーン、という大きな音を立ててくるのです。
 びっくりした私は、持ち歩いていた「防空ずきん」を頭にかぶり、駅構内に作られていた防空壕に逃げ込みました。京橋駅には、地下を掘った防空壕が何ヶ所かありました。広さは3〜4メートル四方ほどの狭いものでした。小さい線路の枕木などで補強されていましたが、掘ったままの土の壁が剥き出しになっていて、薄暗い場所でした。

 大人の駅員さんたちが、私たち女学生に親切にしてくれて、「あなたたち、早くここに入りなさい」と、私たちを先に防空壕に入れてくれたことを覚えています。
 防空壕に入って間もなく、ドドーンという爆弾の音がひっきりなしに続き、防空壕の中は大きい地震のように揺れました。叩きつけられるような強い衝撃もありました。防空壕の中には、20名近くがぎゅうぎゅうに身を寄せ合っていましたが、まったく生きた心地がしませんでした。壕の外ではどうなっているのか、まったく分かりませんでした。


現在の京橋駅。
大阪環状線と京阪電車が交差するターミナル駅。



防空壕の外には多数の死体
 防空壕の中で、1時間くらい爆音と振動が続いたと思います。ようやく爆撃音がやんだので、男の駅員さんが壕の入り口から首だけを外に出して様子を見ました。駅員さんは、「えらいことになっている」と驚き、外に出るように言いました。
 防空壕の外には、見渡すばかり一面に死体が横たわっていました。駅構内を歩いていた乗客の人たちが、その場で亡くなっているのです。折り重なっている死体もありましたし、柱や壁に叩きつけられたような死体もありました。駅舎には爆弾が直撃したのでしょうか、建物がペシャンコに壊れていました。おそらく、壊れた建物の下にも、たくさんの人が埋もれていたと思います。
 京橋駅で私が見た死体は、火傷や出血はあまりなかったです。普通に服を着たままの人が、地面やホームに横たわって死んでいるのです。民家を焼くための焼夷弾ではなくて、近くの砲兵工廠を破壊するための大型爆弾が落ちてきたから、そうなったんでしょうね。でも、膨らんでいた死体を見たような気もします。爆弾の熱風で膨張したのでしょうか。

死体を運んで、積み重ねる
 たくさんの死体を見て呆然と立ち尽くしたのもつかの間、憲兵が「お前たち、死体を運べ」と命令しました。そこで、女学生二人一組になって、手当たり次第に死体を「たんか」に乗せて、二人で運んでいくのです。近くの空き地まで運んだら、「井」の字型を組むように、死体を縦横に並べて積み重ねました。
 死体は重かったですよ。人の力が抜けた状態というのは、思うように動かせません。地面から「たんか」に移すだけでも大きい力が必要でした。15歳だった私は、死体に触るのも初めてだし、こんなに多くの死体を目にするのも初めてでした。今から思えば、よくあれだけ死体を運ぶ仕事をできたなぁと、不思議に思います。
 折り重なった死体を動かそうとしたとき、キッと私のほうを睨みつけるような目の男性の死体と目が合って、腰を抜かしそうになりました。これだけ沢山が死んだのに、生き残ってしまった私が恨めしくて睨んでいるような気がしました。
 倒れている人のなかには、助けを求める人もいました。消え入りそうな声で「私は、まだ生きているから、助けてください・・・。」と、手を合わせて頼んでくる男性もいました。でも、どうすることもできなくてねぇ。本当に、私には何もしてあげられなかった・・・。そんなことも思い出すと、自分が生き残ったことが申し訳なくて、思い出すのも辛いです・・・。

学校の先生が来て、初めて涙が・・・
 不思議なことに、私も、ほかの女学生の友だちも、「怖いなぁ」とか、「生き残ってよかったなぁ」とか言わずに、空襲のすぐ後で、見るも無残な光景のなかで、黙々と死体を運ぶ仕事をしていました。
 涙を流して怖がったり、死体が怖くて触れない、ということもなかった。 もう防空壕を出たときから世界が違っていて、いつもとぜんぜん違う感覚になっていたのでしょうねぇ。
 ところが、女学校の先生が、京橋駅の様子を見に駆けつけてくれて、私たちを見つけて、「あんたたち、生きていてくれたの・・・!」と声をかけてくれました。そのときに初めて、私たち女学生は声を上げて泣きました。涙も流しました。先生の言葉で、やっと自分達が生きていて助かったことに気づいたのかも知れません。気丈に、動員学徒として死体を運ぶ任務をしていた私たちが、先生の言葉で15歳の少女に戻ったのでしょうねぇ。

  
  昭和19年頃の山崎さん(左端)

死体を焼く匂いが身体に染み付いて
 8月の暑い盛りでしたから、死体を放っておいたら、すぐに虫がわきます。しかも、死体はそこらじゅうに転がっていて、いったい何百人が死んだかと思うほどでした。ですから、遺族の人が身元確認に来るまで遺体を安置しておくことはできません。
 私たちは、駅の南側に流れている寝屋川のところまで死体を運ぶよう言われました。そこで死体を焼くためです。
 死体に火を付ける作業は、別の大人の人がやっていました。沢山の死体を焼くものだから、本当にきつい匂いがしてねぇ・・・。石油とかを付けないで、そのまま火をつけたと思いますよ。本当に人間を焼く臭い、忘れられません。あの日は、家に帰っても、母親から「あんた、すごい匂いがする」と言われたほどです。死体を焼く匂いが、身体や服に染み込んだのです。
 遺族の人が来る前に死体を焼いてしまうのですが、身元確認だけはしました。当時は、いつ空襲で死ぬか分からないから、みんな胸元に名前や住所を書いた布を縫い付けていたんです。それを書き写して控えました。
 空襲の当日か翌日のうちには、かなりの死体が片付きました。私も、何十人もの死体を運びました。

アメリカ軍機から「空襲は終わり」というビラが
 京橋駅の空襲は、終戦の前の日のことでした。それでも、当時の私は、まさか戦争が明日に終わるなんて知らないです。
 ところが、空襲がやんでしばらくして、アメリカ軍機が飛んできて、「空襲は今日で終わりです」と書かれた紙を壊滅した京橋駅の上空からバラまきました。きれいな毛筆で、白い短冊のような紙に書かれていました。
 それが何を意味するのか分からないまま、手にとって読んでいると、大人の男性が来て、「そんな物を持っていてはいけない」と言って取り上げました。こっそり隠し持っていたらよかったんですけどねぇ。
 それで、次の日にはラジオで玉音放送が流れて、本当に終戦になった。ということは、アメリカ軍は、次の日には戦争が終わることを分かっていながら京橋駅に爆弾を落として、しかも「空襲は今日で終わり」というビラまで落として行った。いったい何のための空襲だったのか、なぜ沢山の人が京橋駅で命を落とさなければならなかったのか、今でも分かりません。戦争とは、本当におかしいものだと思います。

終戦を告げる「玉音放送」を聞いた私の気持ちは
  空襲の翌日、「天皇陛下が大切な放送をする」と近所の人から言われて、家のラジオで玉音放送を聞きました。雑音でほとんど聞き取りにくかったのですが、ただ1箇所、「ことごとく水泡に帰せり」という言葉は聞き取れたのです。私は、「えっ、どういうこと?、戦争は終わったの?」と、よく理解できないままでした。
  今から思えば、前の日にあれだけ悲惨な京橋駅空襲を体験したのに、それでも日本が戦争に負ける訳がないと思っていたのです。戦前からの教育で、そう信じてきたのです。
  戦争に負けたんだ、と分かった私は、腹が立ちました。 1日前に京橋駅で大勢が死んだのは一体何だったのかと思ったからです。 本当なら、もう空襲はなくなるから安心だと喜ぶところなのでしょうが、私は前の日の空襲と死体の山が頭から離れないから、とても「安心」なんて思う気持ちではなかったです。

戦争が終わって
 戦争が終わっても、8月末までは動員学徒として京橋駅で仕事をしました。
 9月からは女学校に戻って授業を受けました。 四天王寺は、五重塔などほとんどの建物が空襲で焼かれましたが、幸いにも四天王寺高等女学校の建物は消失を免れました。それでも、食糧難から、運動場を耕して畑にするなど、戦争の影響は目に見えた形でありました。
 戦争中は、「空襲のときに敵機に狙われる」という理由で、白い服装を着るなと言われていました。夏でも黒い長袖に黒い軍手を身に付けていました。 だから私は、、制服のセーラー服は、あまり着てないんです。 今、若い人が明るい制服を着ているのを見ると、平和だなぁと感じて嬉しくなります。

  
   戦時中の四天王寺高等女学校。
   運動場が畑になっている。(山崎さん所蔵)


 あれから60年たちました。今でも、月1回は京橋駅に月参りに行っています。毎年8月14日に行われる慰霊祭にも参列します。
 若い人たちが、戦争体験の聞き取りに取り組んでいるのは、本当にいいことです。でも、私のなかには、「こんな辛い戦争のことなんて知らない方がいい。」という気持ちもありましてねぇ。だけど、京橋駅の空襲のことを、語り伝える人がいなければ、という思いで、いつの間にか「語り部」になってしまいました・・・(笑)。
長いこと、小唄の稽古もしてまして、反戦小唄の創作にも取り組みました。自分の中で、平和が大事という思いをしっかりと持って行きたいと思います。
 今、憲法が変えられようとしているのは、本当におかしいです。私には、「憲法9条があるから平和が続いた」という思いがあります。日本の自衛隊が武器を持って外国へ行くようなことになって、おかしいことになっています。
 戦争を始めようとする人は、私が60年前に京橋駅で見たような光景を見たことがなくて、戦争のひどさを分かってないと思います。二度と戦争は繰り返してほしくないです。


  
  山崎稲子さんの「反戦小唄」を紹介する記事
  (毎日新聞・昭和56年7月18日付)



 2005年8月 大阪市東住吉区の自宅にて
 聞き手・大前治(大阪弁護士9条の会)
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≪京橋駅 慰霊祭 について≫
山崎稲子さんが語っていた「毎年8月14日に行われる慰霊祭」は、JR大阪環状線の「京橋駅」の南口を出たところで開催されます。慰霊祭の開催場所と、案内文をご紹介します。

※ 2019年も、8月14日(水)11時から京橋駅南口で慰霊祭が開かれます。




↑ JR京橋駅・南口(線路沿い)の慰霊碑。
地元の小学生による千羽鶴が供えられている。
左側にみえる碑文は、下記を参照。



↓ 2013年8月14日の慰霊祭の案内文。


京橋駅慰霊祭が行われる場所。 JR南口を出てすぐ。



    終戦前日の8月14日、大阪の京橋駅が空襲を受けました。多数の遺体を運んだ女学生の壮絶な体験談です。


*空襲被害の責任を問うた「大阪空襲訴訟」。その原告の半生を追い、弁護士が掘り起こした事実を紹介する書籍です。ぜひ、お読みください

せせらぎ出版
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