2010年5月26日(水) 午後2時〜 大阪地方裁判所 202号法廷
大阪空襲訴訟 第7回弁論の報告
原告の永井佳子さんと、弁護士4名が意見陳述をしました。  提出した書類のページ 
  
今回提出した第7準備書面 word PDF 今回提出した第8準備書面 word PDF

◆内容◆
 弁護士 高木吉朗  (これまでの弁論の概要)
 弁護士 篠原俊一  (各原告が受けた被害の実情)
 弁護士 西   晃  (被災者の運動の歴史)


原告 永井佳子さん (意見陳述)
弁護士 藤木邦顕  (原告小宮山さんの死去について)





弁論更新にあたっての意見陳述

                      2010年5月26日                .
 原告ら訴訟代理人                .
                    弁護士  高 木  吉 朗       .

第1 米軍による日本本土空襲の実態
1 「住民選別爆撃」というべき非人道的な空襲の実態
  アメリカ軍による日本本土への空襲が本格化したのは、太平洋戦争末期の1945年、昭和20年3月以降のことです。
  昭和20年3月10日の東京大空襲では、死者10万人以上、被災者100万人以上もの犠牲が出ました。この死者の数は、長崎の原爆による死者の数をも上回っています。
  その後も、日本全国の都市、大都市だけでなく中小の都市まで、B29爆撃機を中心とする猛烈な空襲が行われました。
  この米軍の空襲は、これまで、軍事的拠点などと一般住民の居住地を区別しない無差別爆撃と一般に言われてきましたが、最近の研究によると、むしろ、一般住民の住所地を狙い撃ちにしたものであり、住民選別爆撃と呼ぶべきものであったことが、米軍資料の分析結果からわかってきました。空襲の非人道性を如実に物語るものと言えます。
  この空襲で、ある者は焼き殺され、ある者は家族を失い、ある者は一生残る火傷を負い、またある者は手足や目を失いました。家や財産を失った者も数多くいます。
  大阪市内は焼け野原となり、おびただしい数の焼死体が街じゅうに横たわりました。この裁判所の前を流れている大川にも、熱と炎から逃れようとして飛び込んで力尽きた人たちの遺体が数多く流れていました。大阪駅のホームに立つと難波までが見渡せる状態となりました。

2 被害実態の映像
  私たちは、この法廷で、空襲被害の実情を示す映像をいくつか示しました。
  そのいくつかを再度お示しします。
  まず、空襲直後の大阪の様子を写した写真です。
      

      

      

      

 次に、東京大空襲の時の写真です。
      

      

      

 空襲直後、このように川には水を求めて人が殺到し、多くの人々がそのまま息絶えました。大阪の大川でも、全く同じ光景が展開しました。
  空襲による被害が原爆のそれに比肩しうるほどすさまじいものであったことがわかります。

第2 国の補償義務の根拠となる先行行為
   次に、被告国の補償義務を基礎づける先行行為について、主張の要旨を述べます。

1 被告国は、国民が空襲による被害を受けることを防げたにもかかわらず、その機会を何度も逃した
  原告らは、日本政府が無謀な太平洋戦争の開戦に踏み切り、さらに、戦争終結の時期を遅らせ、それによって、本来ならば避けられたはずの空襲を自ら招き寄せたことを指摘し、これが条理上の作為義務の前提をなす先行行為となることを主張しました。
原告らが主張する先行行為は、1941年12月に当時の日本政府が太平洋戦争の開戦に踏み切ったことに始まり、国民に未曾有の犠牲を強いた挙句、1945年8月にようやく終戦を迎えるまで、幾多の事実の積み重ねによって段階的に構成されています。 
  しかし、その中でも特にターニングポイントとなった3つの時点が重要です。その3つの時点とは、
 @日米の国力の差を無視して、無謀な太平洋戦争の開戦に踏み切ったこと、
 A1944年夏にマリアナ諸島が陥落し、米軍の手に落ちた結果、本土空襲の危険が現実化したこと、
 B東京を始め全国各地で空襲が始まる直前の1945年2月、近衛文麿元首相が昭和天皇に戦争終結を上奏したにもかかわらず、結局戦争継続の方針が採られたこと、
  以上の3点です。
  この3つのうちいずれかの時点で戦争を中止していれば、個々におられる原告の皆さんが、筆舌に尽くしがたい苦痛と苦労を味わうことはありませんでした。
  そして、近衛の上奏文が受け入れられなかった1945年2月の時点で、その後に起こることになる数々の悲劇、すなわち3月10日の東京大空襲に始まる日本全国の大都市から中小都市までを壊滅させた激しい空襲、沖縄戦、広島・長崎の原爆、ソ連軍の侵攻による中国残留孤児の発生などを避ける最後のチャンスは、完全に失われたのです。
  その後、全国各地での空襲が激しさを増していた1945年6月、首相の鈴木貫太郎は、議会で次のような演説をしました。
  「近時、敵の空襲はますます熾烈となり、全国各地に多大の被害を生じている。戦災者も少くなく、まことに同情に堪えない次第である。しかも、空襲は今後さらに苛烈になることは必然である。だが、全国民一体となり、戦争完遂の一点に集中し、一人も残らず決死敢闘する時に国民道義は確立せられると確信する。」
  もはや、まともな人間の判断ではありません。

2 国民は、空襲から逃げることを罰則をもって禁止された
  以上のような歴史的経緯に加えて、被告国の先行行為という観点からより重要なのは、当時、被告国は国民に対して「空襲からの退去方法」や「生命の守り方」を周知せず、空襲の危険性や焼夷弾の破壊力についての正しい知識を与えず、その一方で、防空法という法律を中心にして、強度の防空義務・消火義務を課し、しかも違反には罰則を設けていた、という重大な事実です。

(1)国民に課された防空義務・消火義務
  国民の生命や財産を守ろうとするものではなく、それらを犠牲にしてでも、都市および軍事拠点や生産基盤の防衛に国民を従事させるという「国民防空」の考え方は、1937(昭和12)年の「防空法」制定から本格化しました。この防空法は、1941(昭和16)年10月、一般市民に強度の防空義務を課すべく改正されました。
この防空法改正により、国民の空襲時における退去禁止(8条の3)をはじめ、空襲時の応急消火義務(8条の7)が明記されました。そして、その違反に対しては、罰則による制裁が科されました。
  「軍官民共生共死の一体化」といわれる当時の軍及び政府の方針は、このような形で具体化していったのです。
  1941年(昭和16年)の防空法改正により、空襲からの退去禁止や消火従事義務が明記された以降は、防空壕政策も変化します。
  内務省防空局が1942年(昭和17年)8月に発表した「防空待避所の作り方」(甲A20号証19頁)には、次のような記載があります。
  「(空襲時は)速かに手近の適当な場所に待避して一時危険を避け、爆弾や焼夷弾が落ちたその時にこそ、直ぐにとび出して行って防護活動を始めるやうにしなければなりません。即ち待避は決して単に逃げ隠れすることではなく、積極的に防護活動をするため、一時無駄な危害を避けて待機することです。」
  退く方の「退避」ではなく待つ方の「待避」という用語が使われていることに注目してください。
      
  さらに内務省が発表した「防空待避所の作り方」(甲A20号証20頁)と題する文書は、防空壕は家の外ではなく家の中に作るべきであるとして、次のように述べています。驚くべき内容です。
  「一般には家の中に作った方が、雨水の流入の虞れがなく、夜間や厳寒時の使用を考えてみても一層便利であると思ひます。なほまた外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考へます。」
  しかし、頭上に落ちてきた焼夷弾は一瞬で家屋を猛火に包み、自分自身も火に巻かれるのですから、「焼夷弾の落下がよく分かる」などと言っている暇すらないはずです。
  さらに同「防空待避所の作り方」には、爆弾の破片の貫通を防ぐためには、土を80センチ盛り上げるか、布団を100センチ積み上げる、書籍・紙を40センチ積み上げるという方法で十分だと書かれています。
  しかし、このように布団や紙を積み上げても、爆弾や焼夷弾を防げるどころか、容易に貫通したり燃焼してしまうことは明らかであり、実際にもそのようになり、多くの人命が失われました。

(2)国民への情報の秘匿と誤った情報の流布
  当時、軍及び政府は、空襲の被害がいかに甚大であるかについては徹底的に情報を秘匿する一方で、焼夷弾など大したことはない、という誤った情報を国民の間に垂れ流し続けました。
例えば、 政府が1941年(昭和16年)12月に都市部の全家庭へ配布した「時局防空必携」という冊子(甲A17号証)によれば・・・

・「弾は滅多に目的物に当たらない。爆弾、焼夷弾に当たって死傷する者は極めて少ない。」
・「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」
・「空襲の被害が実害より大きくなるのは、むやみに怖れたり、油断をしたり、備えがなくて慌てて混乱するからである。 特に焼夷弾を消し止めないと大火災となり被害が大きくなる」
・「エレクトロン焼夷弾の火勢が衰えたものは屋外に運び出す。」
 などと書かれています。
 もう一つの例です。これは、1944(昭和19)年当時、東京都内で掲示されていたポスターです。
      

 このポスターには、「消せば消せる焼夷弾!」「焼夷弾には突撃だ!」等と、無茶なことが書かれています。
  このように、国民は焼夷弾の脅威を知らされないまま、1945(昭和20)年3月以降、全国各地ですさまじい空襲攻撃にさらされることになるのです。

4 小括
  以上述べたように、原告らが受けた空襲被害は、決して回避しえなかった偶然の災害ではなく、多くの選択肢の中から政府が選択した政策の必然の結果として生じたものですから、現在なお一般戦災者に対する補償の措置を講じていない被告の不作為は、条理上の作為義務違反を構成するのであって、被告の違法性は明らかというべきです。

第3 違憲状態(不平等)の継続と拡大
  次に、被告国がしかるべき立法を行わなかった結果、憲法14条違反の状態になっていることについて、主張の要旨を述べます。

1 侵害行為の端緒としての空襲被災者援護制度の廃止
  戦時災害保護法は、太平洋戦争開戦の翌年である1942(昭和17)年2月25日に制定されました。この法律は、軍人とそれ以外の一般国民とを区別せず、全ての空襲被災者を保護するものでした。国民全てを動員する総力戦体制を担保するための法律だったからです。
  すなわち、第1次大戦までは戦闘地(戦線)と銃後の区別がまだ一応存在していましたが、第2次大戦になると、都市空襲という手法が用いられて国内が戦場化し、戦争をすれば必ず総力戦になってしまうことが認識されるに至ったからでした。
  だからこそ、ヨーロッパ諸国では現在、軍人と一般民間人を区別することなく救済する法制が一般的になっているのです。
  その後、終戦を迎えますが、戦後間もないころは、政府も一般の戦災者保護の必要性を認識しており、その旨閣議決定もしていました。
  ところが、その閣議決定からわずか9ヶ月後の1946(昭和21)年9月、戦時災害保護法を廃止してしまいます。
そして、その6年後の1952(昭和27)年に、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定して、人軍属およびその遺族に対して手厚い援護・補償を開始しました。
  これにより、「戦災者」という言葉を用いてその援護を定める法令は、日
本法制度上から完全に消滅しました。
  ここで注意していただきたいことは、昨年12月の東京地裁判決が言っているような、「戦災者保護が生活保護法に吸収された」という認識は誤りである、ということです。
  既に準備書面で詳細に主張したように、もともと戦前から存在していた救貧立法である「救護法」にも定められていた制度が「旧生活保護法」へと引き継がれたにすぎず、戦災者の保護は行き場を失って消滅したのです。
  このようにして、被告国は、当時の国民の切実な願いに反して、わずか9ヶ前の閣議決定を反故にして、1946(昭和21)年9月に空襲被災者の救済を放置する侵害行為を開始するとともに、軍人軍属と空襲被災者との不平等を拡大させ始めました。

2 戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用範囲の拡大
(1)明文改正による援護対象の拡大

  1952(昭和27)年4月に制定された戦傷病者等援護法の適用範囲は、その後どのように拡大していったのでしょうか。これには、明文改正によるものと、通達による解釈の変更によるものとがあります。
  なお、この点について、昨年12月の東京地裁判決は、原爆被爆者等との対比にふれるのみで、戦傷病者等援護法自体の改正や解釈の変更にはふれておりませんので、改めて注意を喚起しておきたいと思います。
  まず、明文改正によるものから見ていきます。
  制定当初は軍人と軍属のみを援護対象としていた戦傷病者等援護法は、以下ように適用対象を拡大しました。、一例をあげると以下のとおりです。
・ 民間船舶の乗組員  1953(昭和28)年
・ いわゆる「責任自殺」をした者   1955(昭和30)年
・ 民間の被徴用者、被動員者 1958(昭和33)年
・ 戦時災害以外の理由で傷病を受けた者 1961(昭和36)年
このほか、非戦地の有給の徴用者、民間会社である南満州鉄道株式会社の従員、兵士や武官ではない公務員、隣組で指名された防空担当者など
これらの人たちが、次々に法改正により「軍属」や「準軍属」に加えられました。

(2)解釈変更による援護対象の拡大
   以上のほか、通達による解釈変更によっても、同法による援護対象は広げられました。
・ 赤十字社の救護員 1953(昭和28)年
・ 従軍報道班員    1963(昭和38)年
・ 軍需会社の従業員  1974(昭和49)年
・ 沖縄戦の被災者   1958(昭和33)年
  このうち、沖縄戦の被災者について述べます。政府は、沖縄が日本で唯一民間人多数を巻き込む地上戦が行われた地であることを理由に、実質的に民間人も同法の対象となるように、1958(昭和33)年5月、一般住民であっても戦闘に協力した「戦闘参加者」に該当すれば、援護法にいう「準軍属」に認定し、遺族給与金などを支給できるように改めました。
  では、「戦闘参加者」の判断実態はいかなるものだったのでしょうか。
  例えば、一般住民が日本兵から壕を強制的に追い出されたりすれば、それだけで「戦闘参加者」とされました。
  また、日本兵に食糧を強奪され餓えて死んだ場合であっても、やはり「戦闘参加者」とされました。
  いわゆる集団自決についても「戦闘参加者」とされましたが、その理由は、住民が生きて敵のスパイとなることのおそれを自決によって自ら防止、その結果、軍の戦闘能力の低減の未然防止に寄与したと評価されたためでした。
  これらのことから明らかなように、「戦闘参加者」として扱われた一般住民の多くは、地上戦の戦闘行為自体には加担しておらず、国や軍の命令を受けることもなく、単に悲惨な沖縄戦に巻き込まれ、死傷したものばかりであります。形式的には、戦闘に参加したことになっているが、その実態はまさに空襲被災者と同じように、悲惨な戦争に単純に巻き込まれた民間人なのです。

3 原爆被爆者との対比
  原爆被爆者に対する救済立法の過程も、空襲被災者を救済の対象から排除することが違法かつ不当であることを教えてくれます。
  被告国は、原爆被害は「特殊な被害」であるのに対して、空襲被害者はそうではない、という主張を繰り返しています。
  このような国の立場からすれば、原爆投下に基づく放射線に起因する被害だけが救済されるべき被害であり、原爆以外の空襲被災に伴う被害は、例えそれが、全身の皮膚が熱で溶けて垂れ下がるようなものであったとしても、救済しなくてもよい被害だ、ということになってしまいます。すなわち、落ちてきたのが1発の原子爆弾であったか、それとも無数の焼夷弾(1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で使用された焼夷弾は、わずか一晩で38万1300発にのぼる)であったかによって、このような著しい差異が生じることになるのです。
  たしかに、原爆による被害が、焼夷弾等による空襲被害とは異なった一面を持つことは事実です。それは主に、原子爆弾が強い放射線を広範囲に放出する特質を有しているために、時間が経過しても症状が増悪する可能性が高い、という、放射線の持つ「晩発性」の特質に起因します。しかし、広く国民の間で原爆被爆者の救済の必要性が認識されてきたのは、それが単に放射線被害だったからではありません。それは、原子爆弾という、人類史上最悪の大量殺戮兵器が実際に使用された、という事実の重みの故に、「特別の犠牲」とされ、救済の必要性が認識されてきたのです。
  問題は、だからと言ってなぜ空襲被災者への救済がなぜ「一般犠牲」として否定されなければならないのかということです。
  空襲による被害は、原子爆弾によるそれと比べても、決して軽微なものではありません。先に写真を示したように、空襲直後の町は、原爆投下直後の町と同じように、川には水を求めて人々が殺到しました。町を歩く人の中には皮膚が熱で溶けて垂れ下がっている状態の人がありました。多くの人が病院へ担ぎ込まれ、すぐに病院では収容しきれなくなり、あちこちにけが人がそのまま寝かされました。けがを負った人の傷口からは、やがてウジがわきだしました。このような悲惨な被害が、なぜ救済を要しないのでしょうか。原子爆弾による被害を「特別の犠牲」として救済するのであれば、同じように過酷な被害にあった焼夷弾による被害者も、やはり「特別の犠牲」として救済されなければならないのではないでしょうか。
   なお、ここで特に注意していただきたいことは、空襲の被災者たちが、しばしば「一般戦災者」と呼ばれていることです。ここで言う「一般」の意味は、軍人・軍属ではない一般国民、つまり民間人という意味で用いられているのであって、決して、「特別犠牲か一般犠牲か」という区別に基づいた呼び方ではありません。この点、誤解のなきよう、お願いいたします。

4 補償における格差の実態
  では、軍人・軍属と民間人の空襲被災者との間には、実際にどの程度の格差、すなわち不平等が生じているのでしょうか。軍人軍属関係の援護補償の支出累計は、1952(昭和27)年以降から1997(平成9)年までで、総計41兆2103億円であり、現在も、軍人軍属関係の恩給と遺族年金の支給額は、年間平均1兆円近くの予算が組まれています。
  したがって、軍人軍属関係の支出は、2009(平成21)年現在時点で50兆円を優に超える莫大な数字となっていると考えられます。
  仮に、これと同様の給付を原告らが受けられるとしたらどうなるでしょうか。以前の弁論でも述べましたように、原告安野輝子及び同藤原まり子の場合だと、同程度の障害を負った在職12年以上の軍人との差は、年間426万7600円になります。
原告小林英子の場合、同程度の障害を負った在職12年以上の軍人との差は、424万0700円になります。
  本年3月に亡くなられた原告小見山重吉の場合、同程度の障害を負った在職12年以上の軍人との差は505万9700円の差となります。
  では、これらの差額の現在までの累計はいくらになるでしょうか。これも以前の弁論で述べましたが、原告ら代理人の試算では、原告藤原の場合、1億4936万6000円もの差が生じています。
原告小林の場合、1億9507万2200円もの差が生じています。
  原告小見山の場合だと、なんと2億4286万5600円もの差になります。
  原告らは、本件訴訟で一人1000万円強の慰謝料を請求しているわけですが、このような格差の実態からすれば、本件訴訟での請求額はまことに微々たるものといわなければなりません。
  なお、このような具体的な格差、不平等の実態についても、東京地裁判決は全く言及しておりません。これでは、本件が憲法14条違反に至っているか否かの判断は到底できないでしょう。

第4 東京訴訟判決について
  次に、これまでも若干言及しましたが、昨年12月の東京地裁判決(以下、東京判決と言います)について、項を改めて述べます。

1 受忍論の放棄について
  東京判決は、33頁に渡る判決理由の中で、かつて名古屋空襲訴訟において最高裁判所が打ち出した、いわゆる「戦争損害受忍論」には一言も触れませんでした。
  戦争損害受忍論は論理的に破綻しているだけでなく、実際的にも、時代とともに、裁判所が原告らの救済を拒否する論拠として用いるにはもはや耐えられなくなっています。戦争損害受忍論は、戦争損害に対する補償が「憲法の全く予想しないところ」であるところを論拠としています。しかし、政府の行為によって二度と戦争の惨禍が起こらないようにすることを誓っている憲法が、そのもととなった戦争損害に対しての補償を「全く予想しない」はずがないのです。
  東京判決が戦争損害受忍論に触れなかったのは、裁判所が、今後は戦争損害受忍論を完全に放棄する、という態度を表明したということに他なりません。

2 立法裁量論について
  東京判決は「一般戦争被害者にまで視野を広げた場合,被害を受けたのが,原告ら東京大空襲の一般被災者だけではないことは明らか」と述べ、裁判所が救済の判断基準を選別するのは困難であると判断しました。
  しかし、東京訴訟においてもそうであったと思われますが、少なくとも大阪空襲訴訟において原告らが求めているのは,「一般戦争被害者」という広い範囲についての立法不作為の問題ではありません。ここにも、先ほど触れた「一般」という用語の使い方の混乱が見られます。
本件訴訟では、すでに主張したように、あくまでも都市部に対する空襲という,その規模・残虐性等において重大な特質を持った攻撃によって被害を被った,限定された者に対する立法不作為について,その違法性を主張しているものであります。空襲の被災者は、東京判決の言う広汎な「一般戦争被害者」とは異なります。
また,その救済の程度についても,すでに制定されている,軍人・軍属,あるいは準軍属に対する救済法に準じる形で行えばよいのですから、救済の方法等についても,裁判所がゼロから定める必要は全くありません。
  従って,本件訴訟においては,東京判決が述べるような「一般戦争被害者の中から救済,援助の対象となるのが相当である者と,そうではない者との選別をするなどということは到底困難と言わざるを得ないところ」などという「言い訳」は許されないのであります。

3 被告が東京判決(乙1)を証拠提出した意味が問われる
  被告国は、東京判決を書証(乙1)として提出しました。これまで答弁書以外には何ら主張書面を提出せず、原告の主張への反論もしてこなかった被告国が、ただ東京判決だけを証拠提出したのです。
  しかし東京判決は、被告国が答弁書で主張したような戦争損害受忍論を採用していないのですから、被告国が東京判決を自らの主張の論拠として用いることはできないはずです。
それでもあえて提出するというのであれば、被告国は、その立証趣旨などをきちんと説明するべきです。
  私たちは、被告国に対して誠実な主張立証を求めるとともに、裁判所において十分な審理と詳細な事実認定がなされるよう求める次第です。

第5 終わりに
  本件訴訟は、空襲の時だけでなく、戦後現在までずっと苦しんできた原告の方たちが起こした訴訟であり、主張の中核は、原告一人一人の被害です。この点は、後に篠原代理人から要旨を述べますので、私の陳述からは除外しております。
  裁判所におかれては、原告一人一人の被害の訴えにきちんと耳を傾け、同時に、被告国がこれまで、軍人・軍属にのみ補償する理由として挙げてきた点はすべて論破され、もはや理論的にも具体的妥当性の面からも破綻していることを踏まえた判決をお願いします。

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意 見 陳 述

2010年5月26日                .
原告ら訴訟代理人                .
                    弁護士  篠 原  俊 一       .


 私は,原告ら第7準備書面−被害各論(その2)−について,次のとおり,意見陳述します。

はじめに
本書面では,前回に引き続いて,8名の原告について,空襲によって,単純な一回的不法行為(あるいは犯罪行為)による個別的被害の集積とは比較にならない,同時的かつ複合的な重大な被害を受けたこと,加えて,その後の人生においてもずっと甚大な苦労・困難を強いられたことを具体的に明らかにし,もって,空襲による被害が単なる被害項目の積み重ねにとどまらず,原告らの人生全般の継続的破壊という,きわめて広汎かつ包括的な被害が生じていることを明らかにします。

第1 戦争動員体制強化の世相

 瀬章代さんは,当時の戦争体制強化の実相を記憶しています。
  瀬さんは,生まれてから22年間,静岡県見付(現在の磐田市)で,暮らしていました。1945(昭和20)年になり,米軍戦闘機からの機銃掃射や爆弾の投下が多くなるにつれ,近隣の各家庭に「防空壕をつくるように」との通達が徹底されるようになりました。地域住民は,それぞれの世帯毎に中庭や裏庭に田や畑を持っていたので,家の中にではなく,敷地内に防空壕をつくるようにとの指示がされていましたが,その防空壕というのは,庭に少し穴を掘って屋根をかぶせ,土を盛っただけのものでした。2メートル弱四方の,頭を下げて入り,中ではしゃがんでいる必要のある,そんな防空壕でした。
  空襲が頻繁になるにつれて,夜間の灯火管制も大変厳しくなっていきました。夜間少しでも光が漏れていると,地域の人が来て,「一軒でも(光が)漏れたら,そこが敵の空襲の標的になるんだからね!」ときつく注意を受けることが頻繁に起こるようになりました。そのため瀬さんの自宅でも,布を重ねるようにして細心の注意を払い光が絶対外に漏れないように気をつかっていたのです。
  瀬さんの通う女学校でも,避難訓練が頻繁に行われるようになりました。空襲を想定して裏山に逃げる訓練では,「絶対私語をするな!」「セーラー服の白い布部分は目立つので全員服の中にしまい込むように!」等の注意を受けたことを瀬さんは,覚えています。
  空襲を想定しての消火訓練も頻繁に行われるようになりました。竹の竿に布を付けたようなもので,みんなで「エイヤ−」と火を消す訓練です。「爆弾が落ちて燃え上がっても,逃げずに火を消さなければならない。」「燃え広がる前に消すことが大事だ」・・・今も瀬さんの記憶に残る町会長の言葉です。
 空襲当時15歳で女学校に通っていた渡邊美智子さんも,戦争が激しくなると軍人が学校にやってきて,竹槍訓練や,消火訓練をさせられたことを憶えています。
 田中正枝さんの母静さんも,近所の人と一緒に「国防婦人会」と書かれた襷を掛けて外出し,大きなハタキのようなものを使って,焼夷弾の防火訓練をしていました。母静さんは,3月13日の空襲の時でも,国防婦人会の人達と消火活動をするために出て行き,田中正枝さんとは一緒には,避難しませんでした。

第2 空襲時の恐怖体験
  そんな戦争動員体制強化の中で,原告らは,空襲により,重大な被害を受けました。
1 瀬章代さんが13歳の時,実家近くにある陸軍兵舎と,空軍(浜松)の飛行基地が標的になって,数多くの焼夷弾が落とされました。だんだん近づく焼夷弾の着弾音のために,死の恐怖に絶望していた瀬さんでしたが,「まだ死にたくない」「まだ死にたくない」と必死で歯を食いしばって我慢していました。
  そのような中,瀬さんの叔父さんは,爆撃にあって無惨な死に方をしました。瀬さんは,自らの目の前を,戸板に乗せられ,ムシロをかぶせられ,左足の足首から先が逆向きになって,ぶら下がって運ばれて行く叔父さんの姿を目撃したのです。その時,瀬さんは心から恐怖を感じました。
  瀬さんの夫隆春さんも17歳の時,空襲に遭い,最愛のお母さんを初め,親族5人を失い,家財道具等一切をも失いました。お母さんの着ていたもんぺの小さな切れ端に焦げ付いていた身体の一部,それが隆春さんのお母さんの無惨な姿でした。

 藤原まり子さんは,生まれて僅か2時間後に始まったB29による民間人を狙った大規模な無差別爆撃から逃れるため,お父さん,叔母さんに運ばれて,防空壕に入りました。ところが,その防空壕のなかに焼夷弾が落ち,藤原さんの左足は焼けただれ,膝の関節から下が内側にむけてぐにゃりと曲がってしまいました。

 渡邊美智子さんは,15歳の時,6月1日と6月7日の二度の空襲に遭いました。一度目の空襲では,お母さんと弟さんを失いました。二人は,自宅の中にあった防空壕の中で,真っ黒焦げの状態で焼け死んでいました。自宅はもちろん,跡形もありませんでした。二度目の空襲は,渡邊さんが,お父さんとともに,身を寄せていた知人の家を襲い,渡邊さんは,降り注ぐ焼夷弾の中をかいくぐって逃げなければなりませんでした。

 永井佳子さんは,後で意見陳述されるとおり,後ろからの焼夷弾の焔で,背中や足を中心に酷い火傷を負いました。

 田中正枝さんは,5歳の時,空襲に遭い,近くのビルの地下室に避難しました。空襲が激しくなるに連れ,煙が地下室内に入り,視界が遮られ,息苦しくなってきました。そのため,田中さんは,地上に出ましたが,地上は一面火の海でした。幸い,一命は取り留めましたが,自宅は空襲で焼失し,陶器類等の家財道具も全て失いました。

 奴井利一郎さんは,3歳の時,空襲に遭いました。奴井さんは,この時,お母さんたちと一緒に,半径3メートルほど,深さ50センチほどの防空壕に入りましたが,その防空壕の上に焼夷弾が落下してきました。
  奴井さんは,お母に抱えられて防空壕から逃げ出すとき,その入口で強く燃える炎によって,体の左半身に大火傷を負いました。焼夷弾の破片が背中の中心部分に当たったため,背中にも傷を負いました。奴井さんのお母さんは,このとき,体のほぼ全身に大火傷を負い,それが致命傷となって,亡くなりました。長女峯子さん,三女孝子さんもこの時の大火傷が原因で亡くなりました。命をとりとめた次女光子さん,お父さんも大火傷を負いました。

 萩原敏雄さんは,12歳の時,宮崎県で,米軍の機銃掃射による襲撃を受けました。
  萩原さんは,押し入れの中に逃げ込みましたが,銃弾が萩原さんの左足の下腿部を貫通,そのため,萩原さんは,左足を切断しました。

 森岡惇さんは,13歳の時,空襲に遭いました。
米軍のやり方は,照明弾で周囲を昼間のように照らし出した後,焼夷弾落として周囲を焼き尽くし,住民を防空壕から追い出して,人々が逃げ惑っているところへさらに爆弾を落とし,住民を皆殺しにする,というやり方でした。
  森岡さんのところには,爆弾の破片が飛んできて,それが左足の大腿部に突き刺さって貫通し,さらに足の肉の一部を引きちぎって飛び出していきました。このとき,足の中を通っている太い神経が切断されてしまい,そのため左足は自力では全く動かせなくなり,だらんとぶら下がったような状態になりました。
   
第3 その後の苦労
 空襲により,傷害を負う,大やけどを負うなどした人たちは,その後,満足な治療を受けることができず,大変苦しい思いを強いられました。
  藤原まり子さんは,火傷した左足に赤チンを塗るだけで,その赤チンを塗るとき,藤原さんの左足の指は5本ともポロポロを落ちてしまいました。森岡惇さんもまた,左大腿部貫通銃創という大怪我であったにもかかわらず,その治療は,赤チンを塗り,消毒薬を塗ったガーゼを左足に空いた穴に通し,包帯を取り替えるだけでした。永井佳子さんの意見陳述にもありましたが,傷口にウジが涌くということも珍しいことではなく,森岡さんの横で寝ていた人の傷口からもウジが涌いていました。

 身体に障害を残した人は,身体の自由が利かない,日常生活が不便である,仕事が見つからないという不利益はもちろんのこと,必ず,周囲からの奇異の目,差別,偏見による苦しみを受けます。
  奴井さんは,小学校の身体検査の時に,同級生から「押すと皮が動く」と言って,火傷の痕を押され,いじめられました。萩原さんは,左足を失ったことで,「チンバ」と馬鹿にされ,幼なじみの女性に結婚の申し込みをしても「チンバが何を言っているか」と冷たい言葉を浴びせられました。森岡さんも,左足の変形のせいで,周りから仲間はずれにされたり,無視されたり,足を引きずる様子を真似されたりし,その度に「死にたい」という考えが頭をよぎりました。
 肉親を失った者,家や財産を失った者も大きな苦しみを受けます。それは,経済的不利益だけではありません。家を失えば,それまで慣れ親しんだ地域とのつながり失います。それは,長年の間に培ってきたその地域での人間関係,信頼関係の喪失を意味します。田中さんとその家族は,この地域とのつながりを失ったことによって,精神的にも大きな打撃を受けました。
  
おわりに
  私がここで述べた原告らの受けた被害は,国が国民を強制的に総動員して,戦時体制に駆り出し,都市住民に対しては空襲から逃げることを禁止して,生命を犠牲にしてでも,危険な防空消火活動をするよう義務づけていた背景があって,発生したものです。
  それ故,空襲によるこれら原告の被害は,単純な一回的不法行為,あるいは犯罪行為による個別的被害の集積とは比較にならない,同時的かつ複合的な重大な被害と言わなければならなりません。
  以上のことを申し上げて,私の意見陳述を終わります。

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意  見  陳  述

2010年2月24日                 .
原告ら訴訟代理人               .
  弁護士   西   晃      .


 代理人の弁護士の西です。
 私の方からは、原告ら第8準備書面に関連し、簡潔に意見陳述をします。

1.まず第8準備書面の第2では、大阪以外の地での空襲の状況を述べています。
  原告安野さんが被災した鹿児島県川内市(現薩摩川内市)、原告瀬さんが被災した静岡県見付町(現磐田市)、原告森岡さんが被災した兵庫県西宮市の3つの地域での空襲の状況です。これまで繰り返し主張してきたとおり、空襲被害は、東京、大阪、名古屋など大都市圏のみならず地方都市も巻き込み、まさに日本全土が戦場と化していたのです。

2. さて、その米軍による本土空襲に関して、最近の研究に基づく知見を紹介しているのが、第8準備書面の第3です。従来、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲を皮切りに全国各地を襲った米軍の空襲は、軍需工場などと住民の居住地を区別しない「無差別爆撃」といわれてきました。しかし、国会図書館等に所蔵されている米軍資料等第一級資料を精力的に研究してきた中山伊佐男氏による最近の研究によると、「無差別爆撃」というよりもむしろ、実際には工場などよりも住宅地の方をより直接に狙ったきわめて非人道的な攻撃であったことが明らかになったのです。
  詳細は今回提出の甲A70号証にありますが、同氏は、日本本土空襲の基礎資料として米軍が1943秋ころにまとめた「焼夷攻撃データ」に着目し、戦闘報告書や空襲目標情報、作戦任務報告書、空襲損害評価報告書等と比較しながら詳細な分析をしています。
  この焼夷攻撃データでは、大阪や東京など20都市について、ゾーンR(居住地域)、ゾーンM(工場地域)、ゾーンX(住宅と工場と混合地域)、ゾーンT(駅や港湾などの輸送機関)、ゾーンS(倉庫地域)と細かくエリア分けされていました。このうち、ゾーンRは住宅地が85%以上を占める地域で、住宅密度の高い順にさらにR1〜R3に分類されていました。米軍はこのデータを基にして、焼夷弾攻撃が有効に効果を発揮するよう、攻撃計画を立てていたのです。その結果、3月13〜14日の最初の大阪大空襲で被災した地域は、住宅密集度が最も高いR1地域にほぼ一致していました。このことから、中山氏は、「密集住宅地が狙い撃ちされたのは明らか。実態は無差別爆撃ではなく、むしろ一般市民こそが標的にされた」と結論づけているのです。さらに中山氏は、米軍が一般市民の多い住宅地を標的にしていたことについて、3月10日の東京大空襲から3月19日までの名古屋。大阪、神戸の各都市の空襲がすべてそうであったことを指摘しています。そしてそれは、大都市だけでなく中小都市の空襲についてもやはり同じであったのです。
  このように、1945(昭和20)年3月以降、日本全国の都市を襲った米軍の空襲は、「無差別爆撃」というよりも、むしろ「住民選別爆撃」というのが正確な実態であったことが判明してきたのです(甲A70号証32頁)。

3.最後に第8準備書面第4では、立法経過に関する補充主張を述べています。
  そこでは今なお続いている立法化要求運動の状況(準備書面別紙@A)、さらには今年3月10日に国会議員会館で行われた与野党議員と空襲被災者との交流集会の様子(甲B60)を述べていますが、ここで私たちが最も強調したいことは、やはり司法の役割・機能に関する部分です。弁論更新にあたって私の方からも再度強調したいと思います。司法裁判所の第一義的役割は、人権救済機関である、ということです。そして問題となっているこの事件(具体的ケース)に関し違法性を認定・判断する機関であるということです。私たちは、東京地裁判決のように、簡単に立法裁量論を持ち出し、立法府の政治責任に逃げる(司法の責任放棄)という姿勢を絶対に認めません。司法のなすべき事は、
@ 空襲被災者である本件原告らが戦前、戦中、政府の具体的施策により、どのような法的地位に置かれ、それに伴いそのような日常の状態に置かれていたか、そして空襲という態様の戦闘行為の本質は何か。それによる被害の実相は何かを認定し、そのような立場にある空襲被害者を、戦後今日まで一貫して放置し続けることによる原告ら空襲被害者の深刻な人権侵害の事実(補償を受けている人々との具体的格差、経済的損失のみならず全人格的な苦悩・苦痛が含まれる)を証拠により認定することです。なお言うまでもないことですが、この事実認定にあたっては、原告らのまさに命がけともいうべき主張に対して、今日もなお極めて不誠実な対応(平成22年5月12日付意見書等)を続けている被告国の応訴態度そのものをも斟酌するべきは当然です。
A その上で、そのような人権侵害をもたらしている国の無為・無策(立法不作為)の違法性判断を行うこと。
B  個別原告の被害内容に見合う法的救済措置(損害賠償等)を国に命じること。
  以上の3点です。
  司法が司法としての本来の役割を果たしつつ、それと相まって立法府がその本来の役割を果たす。この協同作業なしには、原告ら空襲被害者の救済を図ることは出来ません。裁判所には、準備書面本文で述べたような政治部門の立法化に向けた取り組みを後押しし、さらに加速させるべく、司法本来の機能を発揮した、正義と道理にかなう歴史的判決を期待するものです。  

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意  見  陳  述

2010年5月26日                 .
原 告  永 井  佳 子       .


 私は,昭和7年1月11日に生まれ,現在,79歳になります。
  私が受けた,空襲による被害,戦後の人生についてお話させていただきます。
  戦前,私は,会社員の父親,女学校の家庭科の先生をしていた母親,二人の兄と私という家族で暮らしていました。
  ずっと大阪に暮らしていましたが,終戦の数年前頃からは,大阪市此花区の家から,上本町三丁目にある清堀小学校まで電車通学をしていました。

 私も,同世代の人たちと同じように徹底した軍国主義を経験しています。
  昭和16年12月の開戦の際には,学校で,「大戦の勅書」を覚えるように言われました。その当時は,私も「日本は神国だから戦争には必ず勝つ」という先生の言葉を信じていたので,近所の人が出征される時には小旗を振って見送ったものでした。
  昭和19年,上の兄が学徒動員されました。私は,戦争に行けば兄は死んでしまうかもしれないと思い,心の中では行かないでほしかったのですが,そのような様子は,近所手前では決して見せられませんでした。兄を送った後,登校し,先生に,「兄の出征を見送ったので遅れました」と報告したのですが,気がゆるんだのか,思わず泣いてしまったところ,先生に「めでたい出征に何で泣くのか」と叱られたことを覚えています。
  このような,何の根拠もない,不合理な軍国主義の徹底により,政府は,現実的な対応を行わず,今から述べますように,空襲に対する誤った対応の仕方,情報隠しなどにより,被害を拡大させたのではないかと思います。

 昭和18年頃,防火訓練が町内会で行われていました。
  夜に少しでも明かりが家から漏れていると「灯が漏れているぞ」と外からよく大声で注意されたものです。
  また,昭和19年4月前後だったと思いますが,自宅に防空壕を作ることになりました。家族総出で,私も土運びなどを手伝いました。畳1畳くらいの面積で,当時の私が立てるか立てないかくらいの深さ1メートルの穴を掘って,ぐるりに支柱を立てて,板を張った上に土をかぶせるのです。
  当時の私は,警報がなると爆弾を落とされるとは思っていましたが,なぜか人の住んでいるところには落とさないと思っていました。周囲の人もそう思っていたと思います。
  空襲の本当の恐ろしさいついては,自分が経験するまでは全く分からなかったのです。
  昭和19年4月,女学校に入学しました。
  学校でも,空襲に向けた様々な訓練をさせられました。
  例えば,縄をはたき状態にして水につけて焼夷弾をはたくよう,訓練を受けました。当時は,本物の焼夷弾を知りませんでしたので,そんなものか,と思っていましたが,後に現実に焼夷弾攻撃を受けた時には,このような訓練がいかに荒唐無稽で無力なものかを思い知りましたが。
  この頃,高等女学校では,授業で「本土決戦になったら女子供でも闘わなければならない」と教えられ,防火訓練や薙刀の練習を真剣にやらされました。

 昭和19年頃になると,東京が空襲を受けたというニュースが新聞で報道されていましたが,いずれも「被害僅少」とか,「反撃に転ず」とかの内容ばかりで,死者が出たことすら報道されず,まして,子供の私達には,自分が爆撃を受けるなど想像もしていませんでした。
  ところが,昭和20年3月,突如大阪市内南西の辺りが空襲を受けました。もちろん,私たちにとって「突如」だっただけで,当時の政府は予測していたことだと思います。
  住んでいた此花区からは離れており,夜だったので遠くの空に火花が散っているという程度の印象で,それで多くの人が死ぬとか家の多くが焼けてしまうとは思いもしませんでした。被害についても,もちろん何らの報道もありませんでした。軍部が情報をコントロールしていたので,被害の状況さえ知らされていなかったのです。
  この空襲があってから,すぐに,通っていた女学校の校庭に防空壕が20ヶ程作られました。その防空壕というのは縦5m横2m深さ1.3m程のもので,縦面と横面に2センチの板を張り巡らせ,北西と南東に人ひとりがようやく入れる粗末な出入口が有り,頭上は縦横と同じ板を張って,上に50センチ程土を盛ってあるというもので,外から見れば,細長い小さな小山状のものがずらっと並んでいるようなものでした。
  これらが,40名程度の1クラスに2ヶずつ割り当てられ,出席簿順に20人程が入れて土の上にしゃがむというもので,今から考えてみると板の上に土を盛ってあるだけのものでは,ちょっと地団駄を踏んだら天井が落ちてくる様なものだったなあと思います。
  なお,当時から,米軍は空襲を予告するビラなどを事前に空から散布していたそうですが,空から何かが降ってきたら,読むことなく,警察や先生に届けるように言われていましたし,「鬼畜米英」が流す情報は「デマ」だと教え込まれていました。 

 私が被害を受けることになる第2回目の大阪空襲があったのは,昭和20年6月1日午前9時前のことでした。
  警戒警報が鳴ったと思うと,すぐに空襲警報になりました。
  1時間目の授業の少し前だったので,荷物を教室に置き,常に携帯していた防空頭巾を覆り,校庭にある例の防空壕に入りました。まだ,それほどの恐ろしさはなく,「早くいかないと先生に叱られるなあ」という雰囲気で,友人と普通のお喋りをしていたところ,腕時計が8時50分位で止まったと思いました。
  その瞬間のことです。
  最初,雨にしては土砂降り過ぎるような音がしたとたん,突然ガガガと地揺れがし,屋根を突き破って,目の前くらいに燃えたたいまつ状の赤い物が落ちてきたのです。
  そして,すぐに炸裂・炎上し,煙が襲ってきて壕の中は真っ赤になりました。
  瞬間,ここにいたら死ぬ,出ないといけない,と本能的に思い浮かび,近いほうの出口を見たのですが,すでに一方はふさがっていたので,もう一方の出口に向かいました。
  しかし,20人も一度に出ることはもちろん無理で,順々に一人ずつはい出ていき,私もやっと這い出す事は出来ました。
  炎上した出入り口に近かった三人の友人は炎に包まれて一人は身元不明のような黒こげ,一人は窒息,もう一人はショック死と,この防空壕の中で三人の死者を出しました。
  防空壕から出た時は,校庭のあちこちで焔が上がり,校舎も燃え上がっていました。ただ,幸いなことに,私たちの防空壕以外は被害はなかったようでした。結局,講堂と1教室が燃え,その中で40歳くらいの女性の養護教員が一人亡くなられました。
  その時は,私自身,痛さも何も感じず,自分がどこに怪我をしたか分かりませんでした。誰からも避難の指示も何もなかったので,考える力もなく,みんなが行く西方向に歩いていきました。
  私も焔に包まれて,意識朦朧と人波に流されるまま歩いていると,末吉橋辺りで警防団員らしき人に「えらい傷してるやん。こっちおいで」と知らない町医者に連れて行ってもらいました。
  その人から言われて,逃げる時に,後ろから来た焼夷弾の焔で,背中や足を中心に酷い火傷を負ったことが分かりました。
  気が付いた時は済生会病院のベッドの上でした。
  顔にはガーゼ,体中包帯のグルグル巻きで体を動かそうにも動かせず,また話そうにも喉が火と煙にやられて声も出せませんでした。ただ,目だけはどうにか見えており,ベッド脇の心配そうな母の顔が見えました。母に,後から聞いたのですが「これだけの大火傷をしていたら余程の体力が無い限り生命は保証できない,今夜が山場です」と医師に言われたそうです。
  当時の医療状態では助かるのは難しい状態だったようです。
  また,これも,後に母から聞いたのですが,ガーゼや包帯で前身を覆われている我が子の姿を見て,女の子なのに顔や体に火傷の後が残ったら結婚も出来ないし,いっそこのまま死んだ方がこの子にとっては良いのではないかと思ったそうです。

 この空襲で,自宅も燃えてしまいました。
  このような状況のなか,戦局は悪くなる一方で,私の入院していた上町の済生会病院が二度に亘って空爆を受けました。
  一度目の空爆時は医療品が燃えてしまい,包帯もなくなってしまったので,傷口にはザラ半紙を貼ったような状態でした。それでも医師や看護婦さんは懸命に治療を続けて下さいました。消毒薬もなくなったので,私の傷口に蛆虫がわいたそうです。私がショックを受けると思い,母親がこっそり採っていたようで,当時は私も気が付いていませんでした。
  しかし,数日後に受けた二度目の空爆で完全にダメージを受け,治療を続ける事が出来ないので全員退院させられました。
  しばらくして,家族共々,東大阪市(鴻池)の伯母の家に居候しました。
  しかし,そこでも,恐ろしい経験をすることになりました。
  その日,空爆警報が出たと思ったところ,艦載機による機銃掃射があったのです。
  私と母は,迫ってくる飛行機を見ながら,その村の防空壕に入れてもらおうと思い,走って行ったところ「他所者は入らんといて!」と言われたのです。
  防空壕にも入れてもらえず,その防空壕の外で飛行機の機銃掃射で撃たれて死ぬのかなと思うのももちろん恐かったのですが,それと同時に,人の心の冷たさも恐かった事が今も忘れられません。
  そんな事もあり,伯母の家にいるのは危険だと考え,8月に入ってから,父親が会社ごと疎開していた能勢の山奥に避難し,そこで終戦を迎えました。
  私は,「もっと早く終わっていてくれればこんなひどい火傷を負わずにすんだのに」とくやしく思ったことを覚えています。

 終戦によって爆撃で死ぬという恐怖は無くなりましたが,今度は空襲によって受けた火傷のケロイドに対する差別の攻撃が始まりました。
  家が焼けてしまったので,借家住まいだったのですが,内風呂が無く銭湯に行かなければなりませんでした。そこで,「あの子,皮膚病やから近くに寄ったらあかんで」「お風呂屋さんあんな病気の子,早い時間帯に入れんといて,しまい湯に入る様にしてや」などという心ない言葉には深く傷つきました。
  また,電車に乗っていると,私の手の甲にあるケロイドを見た人が席を立って行ってしまったこともあります。
  今は年と共に皺が増え,判別出来なくなってしまいましたが,結婚し子供が出来るまで,夏の暑い日にもずっと長袖の服しか着たことがありませんでした。
  このような差別を受け続けた当時の私は,空襲の時に私を助けてくれなかった教師たちを恨んでひねくれてしまい,誰も信じることもできず,周囲にも反抗を重ねました。
  また,終戦直後の食糧難も凄まじいものでした。
  配給制だったのですが,政府の配給した量ではとても生きてゆけるものではなく,ヤミ物資を調達するより仕様がありませんでした。ただ,そのためには現金で買うより方法が無く,すさまじいインフレが起き,預金は封鎖され,貨幣切り替えがあり,それまでの預金は無いに等しいものでした。
  このような先行き不安の社会情勢の中,真面目なサラリーマンだった父は,誘われるまま事業に退職金等を出資したものの失敗し,多額の借金を抱えました。私の初任給が4633円だった時に200万円の負債を負ってしまったのです。
  そして,心労から胃潰瘍になり,医者にかかる費用もないまま,現在なら殆んど助かる病気である腹膜炎を併発し,55歳で他界しました。本人は無念だっただろうし,私も残念でなりません。
  そして,父が残した,この借金が家族に重くのしかかり,私は高校三年の卒業旅行にも行けず,目標としていた大学も諦め,昼間は阪大医学部の事務職として働き,夜は内職という生活が,結婚する昭和29年頃まで続きました。

8 このように,戦争は,私の人生を大きく狂わせました。
  私は,国民一億総受忍論は,終戦の詔勅にある「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の文言からが出て来たと思っています。しかし,国民凡てが平等に被災したのでは有りません。そして,戦地に行った人には補償があります。
  その人たちと,空襲に遭った私たちとの間に大きな差別を感じます。
  私は火傷を負った事、戦争のこと等については、長い間,貝になったつもりで何も喋らないようにしていました。ところが、10数年前、イラン・イラク戦争の様子をTVニュースで流していたのを見ていた10歳位の男児が「格好いい」と言ったのです。
  花火のように見えるその火の下で,どれほど恐ろしいことが起こっているか,この子は知らないのです。そして,誰からもその恐ろしさを教えられなければ,その子がそう思うのも仕方ないことです。
  しかし,こんな子が何も知らずに大きくなり社会を牛耳る時代が来た時、また「格好良い戦争」を仕出したら大変だと思い、あの空襲で何が起きたのかをきちんと伝えたいと思い,この訴訟に参加する事にしました。
  戦争というのは平和な小市民の平穏を蹂躙し,破壊し,人生をも狂わすものです。戦争のない世界を切望します。

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