意 見 陳 述
2010年2月24日 .
原告 M 田 榮 次 郎 ,
(昭和4年10月31日生) ,
私は、昭和20年3月13日の大阪大空襲にあい、全身に大ヤケドを負いました。 当時、私は15歳、旧制中学の3年生でした。
その日は、とても寒い夜でした。私はいつものように、夜9時ころに就寝しましたが、突然、「榮次郎、今晩の空襲は大きいらしいとラジオで言ってるよ!」という母の声で、無理やり起こされました。
私は、眠い目をこすりながら、しぶしぶ布団から起き、玄関のところに行くと、母と妹はすでに防空壕に入っていました。
防空壕と言っても、家の前に掘られたとても簡単なものです。布団とコタツを入れればすぐにいっぱいになる小さなもので、トタンやベニヤ板で出来ていました。
ほどなく、家から東の方向に、焼夷弾の落下が見えるようになりました。赤い炎が何本もの線となって、空から地上に降り注ぎました。真っ暗闇の中で、上空でピカッと一瞬光り、その瞬間、まるで昼間のようにあたりが明るくなり、たくさんの火花を散らしながら落下していました。
焼夷弾の落下は、徐々に私の家に近付いてきました。それと共に、焼夷弾の落下する「ザアー」あるいは「ジャアー」という、なんともいえない不愉快な音も、だんだん大きくなってきました。
突然、それまでとは違う甲高い音が聞こえ、身の危険を感じた私は、とっさに体をよじり、防空壕に飛び込みました。振り返ると、たった今私が立っていたところに焼夷弾が落下しました。もし、一瞬でも逃げるのが遅れていたら、私は直撃を受けて即死しているところでした。
そして、防空壕に飛び込んだ次の瞬間、私は気を失いました。
気がついたときは、辺りは真っ暗で、電気も全くついていませんでした。自分の体のあちこちにひどいヤケドができていました、特に、右側がひどい状態でした。
母と妹と3人で病院へ向かって歩いていく途中、初めて電灯の明かりのあるところを通ったとき、自分の右手を見ると、皮膚がベロンと垂れ下がり、その垂れ下がった皮膚に砂がベットリとついているのが分かりました。
それから、さらにしばらく歩き、ようやく近所の病院にたどり着き、応急処置を受けました。応急措置といっても、電気も消えたまま、懐中電灯とローソクの明かりの下での処置です。
私の体は、顔、両手、両足と、服から露出していたところはほとんど全部ヤケドを負っていましたが、薬も赤チンくらいしかありませんでしたから、ヤケドの部分全体に赤チンを塗り、リバノールという液体に浸したガーゼを載せただけの処置でした。そして、そのガーゼの上から、全身包帯ぐるぐる巻きにされ、目と口だけ穴を開けた「透明人間」のような格好をさせられました。
翌日になると、目が腫れてきて、さらに顔全体も大きく腫れ上がり、数日間、目が全く見えない状態になりました。
その後の処置も、リバノールに浸したガーゼを取り替えるだけの処置が毎日続きました。取り替えるたびに血が出て、痛みも日増しに強くなりました。
ようやく目が見えるようになると、窓の外には神戸大空襲の赤い空が見えました。自分が受けた空襲の記憶と重なって、やりきれない思いでしたが、そのまま病院に寝ているより他にどうしようもない状態でした。
そうこうするうち、病院にいて10日くらい経ったころでしたでしょうか、母から、私を奈良の病院へ移したいとの話がありました。
しかし、奈良へ移るといっても、私は自力で動ける状態ではありませんし、空襲以後はタクシーも市電も止まったままで、そもそも移動の手段がありませんでしたので、奈良へ着くまで本当に大変でした。
私の体は、小型トラックの荷台に布団を敷いて、その上に横たえられた状態で、友人らに運ばれました。
上本町に着き、そこから近鉄電車に乗り換えました。電車に乗客はほとんどなかったので、電車の床にそのまま布団を敷き、私の体はその上に横たえられて、そのまま大和八木駅へ向かいました。
駅を下りて、そこから病院までの約1キロの道を、友人に背負ってもらって行きました。全く動けない私の体を背負ってくれた友人も大変だったでしょうが、背負われている私も、思うように呼吸ができず、非常に苦しかったことを覚えています。
その後、奈良の病院で終戦を迎えました。基本的な治療方針は以前と同じで、つける薬は赤チンだけ、あとはガーゼと包帯を交換するのみ、という状態が相変わらず続いていました。包帯をとると、傷口からウジがわいていたこともありました。
また、何度か大腿部からの植皮手術を受けましたが、全て失敗でした。しかも当時は麻酔がなかったので、痛い目をしただけで損をしたような気持ちでした。
約9ヶ月間の入院生活の後、昭和20年の11月、ようやく退院することができました。
退院して、学校へ戻ったとき、周囲から「おまえ、えらい顔になったなあ」と言われたことを覚えています。
退院から2〜3年くらい経った18歳か19歳のころ、私の右手の植皮手術を新しい方法でもう一度やってみることになりました。
このときの新しい方法とは、他の部分の皮膚を切り取ってしまうのではなく、腹の2箇所にメスを入れ、腹の皮膚の一部を浮き上がらせて、ブリッジのような形を作り、その浮き上がったところに右手首を指し込んで、そのまま腹の皮を右手首にくっつけるのです。
手術後3週間ほどの間、ずっと右手を腹のところに固定したまま絶対安静でしたが、手術自体は一応成功しました。ただ、右手の指先は、今でもずっと曲がったままです。リハビリもしましたが、結局、右手が元通りに動くことはありませんでした。
退院後は、家業の麻袋の回収や修理を手伝っていましたが、昭和33年に母が、翌34年には父が相次いで他界し、また麻袋の回収・修理は次第に斜陽産業となり、生計の維持が難しくなっていきました。
その後、何とか自活の道を見つけなければならなかった私は、何度となく厳しい試練に直面することになりました。これまで、やっとの思いで生きてきた、というのが実感です。
昭和36年に普通自動車免許を取得、昭和40年には2種免許を取得し、麻袋の回収・修理の仕事をしながら、タクシー会社で運転手として働き始めました。
しかし、麻袋の回収・修理はほとんど収入につながらず、タクシー運転手の仕事もそれほど安定した収入とは言えなかったため、昭和44年、大型免許を取得しました。大型免許があれば、就職は比較的簡単だろうと思っていたのですが、現実は厳しく、障害者の私はなかなか雇ってもらえませんでした。
そこで、子育てをして生計を立てていくためには、元手がなくてもすぐに現金収入を上げられる仕事をしなければと考え、自分で大型トラックを購入して、運送の仕事を始めました。
しかしこれも、手形が不渡りになったりして結局うまくいかず、数年後には、購入した大型トラックも人手に渡ってしまいました。
何とかして家族を養わなければならない私は、昭和50年、やむなく八尾の家を売り、家を売った代金で、小さな店舗付き住宅を大阪市平野区に購入し、パン屋を始めました。しかし、パン屋の収入もなかなか安定せず、生活はなかなか楽になりませんでした。
パン屋を始めて3年後、次女が高校を卒業する年齢になりましたが、収入が安定していなかったために、次女を大学へ行かせることが出来ませんでした。自分の体の障害のせいで、子供達に迷惑はかけられないとの思いから、働きづめの毎日でしたが、それでも、親として十分なことが出来ませんでした。これは、親である私にとって痛恨の極みであり、今も悔いが残ります。
その後、不足する生活費を補うため、50歳になった昭和54年、再び以前のタクシー会社に就職し、その後昭和62年からは個人タクシーの運転手となり、運転手の仕事を、72歳になった平成13年まで続けました。
72歳でタクシー運転手の仕事を辞めた頃、妻の両親が、当初は私の障害を理由に私たちの結婚に反対していたことを、はじめて妻に聞かされました。そんなことがあったのかと、とても驚きました。
戦後60年以上もの間、私は人が多数集まるところに出るのが苦手でした。
電車に乗ったようなときは、人から好奇の目で見られるのがイヤで、右手は隠して乗っていました。座席に座っているときも、右手を膝に乗せることができませんでした。膝に手を乗せて座ると、向かいの座席の人から私の右手が丸見えになり、たちまちその人が驚いたような表情をするのです。よく、私の顔と手を交互に見比べて、「いったいこの人はどうしたんだろう」という表情をされたことがよくあります。
また、2〜3人のグループで電車に乗ってきた人たちが、私の方をちらちらと見ながら、ひそひそ話をしていることもよくありました。
このように周囲から好奇の目で見られるのが、私にとってはたまらないほど辛いことでした。ずっとこのようなことの繰り返しでした。まるで私が世間のさらし者になっているような思いをずっと抱き続けて、私はこれまでの人生を生きてきました。
そのため、外を歩くときはいつも右手をポケットに入れるか、あるいは持ち物で右手を隠すようにしていました。また、できるだけ人前では字を書かないようにしていました。
今でも、冬になると、右手の甲の傷跡にひび割れのような傷ができ、痛みます。そのたびに、皮膚科でもらった油薬を塗ってしのいでいます。
また、今も困難を覚えるのは、他人と握手することです。相手は普通右手を差し出しますが、私の右手を見たとたんに、ばつの悪そう顔をされます。手袋をして握手をしようとしたこともありますが、それではやはり先方に失礼になるので、やめてしまいました。
このように、空襲によって私が受けた傷は、体にも、心にも、未だにずっと残ったままです。
私自身、残り少ない人生をかけて、国に謝罪を求めていく決意です。
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