意 見 陳 述
2009年12月7日 .
原告 中 本 清 子 ,
(昭和14年3月12日生) ,
私は第一次訴訟原告の中本清子です。
1, 6月7日空襲の日の出来事をお話しします。
私は昭和20年6月7日、大阪市都島区中宮町(現内代)の自宅で空襲にあいました。当時私は6歳、国民学校1年生でした。悪夢のような一日の始まるその日の朝,早くから「空襲警報」のサイレンが鳴り響いていました。班長さんの「空襲警報発令,皆さん早く非難して下さい」の声に,母と私は大急ぎで「防空ずきん」をかぶって,位牌をひっつかんで防空壕に急ぎました。
当時,私は母(32歳)と長女の姉(15歳),母の妹(25歳、電話局勤務)と一緒に女ばかり4人で住んでいました。明治41年生まれの父(当時37歳)は「お国に一命を捧げる」といって入隊してしまいました。三女の姉(9歳)は学童疎開で石川県のお寺にお世話になっていて,家にはいませんでした。長女の姉は学校へ,叔母は電話局へ行った後でした。
母と私は防空壕に入ったのですが,近所の人ではない見ず知らず人も入っていて,防空壕の中はぎっちり一杯でした。そのうち,凄い爆撃音が響いてきました。私たちの家,近所の家々が燃え始めました。防空壕の中も熱くなってきましたので,皆,外へ出始めました。一面,黒煙と炎で,阿鼻叫喚の巷と化していきました。私と母は頭から布団をかぶって,位牌を抱きしめて「なんまんだぶつ,なんまんだぶつ」と唇の色もなく唱えていたことをはっきりと覚えています。
「ヒルルーン」「ヒルルーン」「ボカン」という爆発音が周りで炸裂しました。焼夷弾が落下してくる時の空気との摩擦音「ヒルルーン」「ヒルルーン」という音が「ボカン」という音よりも不気味でした。「ボカン」という音だとどこに落ちたかがわかりますが、「ヒルルーン」「ヒルルーン」という音は何処に落ちるのかがわからないのでより強く恐怖を感じました。その音に怯えながら母はひたすら「なんまんだぶつ」と念仏を唱えておりました。
当時,私たちの家の近くに,秘密鉄道といわれていた軍の物資を運ぶ鉄道がありました。そこまで一所懸命にたどり着き、その線路の石垣にもたれて,一面焼け野原になった,自分たちの家あたりを呆然と眺めていました。その時普通は見ることの出来ない大阪城が遠くに青い色のままに見えたことを今でも覚えています。
幸い母と私2人とも無事でしたが、家はもちろん、箸一膳に至るまで家財道具も全て消失してしまいました。
2,空襲後のことをお話しします
この空襲の日を境に、その後は本当に苦労の連続でした。焼け残った家を借りて暮らしを立て直そうとした母でしたが、働くところも全くありませんでした。頼りの父は出征後生死も定かではありませんでした。三女の姉も疎開から帰り、母子4人暗澹たる気持ちで日を送っておりましたが、結局父の兄が四国の愛媛県宇和島に住んでいるのでそこを頼る事になりました。6月の空襲直後のことです。三等の船底に揺られて宇和島に行きました。そこで何とか伝を頼って大きな家の蔵に住む事になりました。そこでの生活は惨めなものでした。食べるものもお風呂もなく、栄養失調と不衛生で体にでき物ができ、それがなかなか直らず往生したことを覚えております。
母は伯母の口利きで、‘いりこ’売りの手伝いをして暮らしておりましたが、その蔵も長くは借りられず、住むところが無くなりましたので今度は母方の祖母の実家がある岩手県へ行くことになりました。8月15日の終戦前のことです。
満員の汽車に乗って岩手県まで行きました。そこは農家でしたので食べる事は何とか出来ましたが、突然3人の娘を連れて厄介になりに来た事に、その親戚の人たちもいい顔はしません。まして母は大阪生まれの大阪育ち、農家の手助けにはなりません。母はよく夜布団の中で泣いていましたが、私達にはどうすることも出来ませんでした。その年(昭和20年)の秋になって、大阪に残っていた叔母から、「アパートが見つかったので大阪に帰って来るように」言ってくれましたので、母娘4人みんなで大阪に帰ることになりました。
そのような経過で昭和20年秋、大阪に帰りましたが、もちろん大阪の暮らしも楽ではありません。全く仕事がありませんでした。結局大阪では生活することが出来なかったので今度は山口県の親戚(父親方)を頼って山口に移り住むことになりました。
このように、私は母に連れられ、6月の空襲の後、その年の秋までの間に、大阪から愛媛、その後岩手へ、それから再び大阪に戻り、また山口へと親戚宅を転々としました。私達が大阪から山口に移転した後に、行方不明になっていた父が復員して来ました。昭和20年中だったように思います。父は戦争で人格が全く変わってしまっていました。戦前は米屋を営んでおり、真面目一方で立ち小便も出来ない人と母から聞かされておりました。米屋も繁盛しており、比較的良い生活だったようですが、軍隊経験と敗戦のショックから、お酒を飲むようになり、精神的に病んでおりました。夜中に突然「ただいま帰還しました!」と軍隊用語で、大声で叫ぶこともしばしばで、まともに働けず、アルコール中毒になっていました。そんな父は、復員して後、数ヶ月は一緒に暮らしておりましたが、その後「働くために神戸に行く」と言って家を出て行きました。昭和21年のことです。
さて、山口に移り住んだ私達ですが、母はそこで病院の付添婦などをしておりました。が、生活するだけの給与がなく、仕方なく私達を親戚に預け、母一人で女中奉公に大阪に出て行きました。昭和21年か22年頃のことです。大阪で母は大きな会社の社長さん宅に住み込みで働き、朝から夜まで懸命に働きまました。
そんな母は結局働きすぎて,昭和25年に、肝臓を悪くして山口に帰って来ましたが、それから10ヶ月ほどして死んでしまいました。昭和26年3月のことです。明らかに栄養失調と過労が原因でした。私が小学5年の冬でした。母はまだ38歳でした。
母の死後、残された私達は、一時的に神戸の父のもとで暮らしておりましたが、やはり精神的に病んでいた父のもとでは生活できず、父から逃げるように各自バラバラになってしまい姉達の行方もわからなくなってしまいました。仕方なく私は叔父の養女にしてもらいました。それから長い年月が経過し、やっとのことで、当時神戸のコーヒー屋さんで、住み込みで暮らしていた三女の姉と再会することが出来ました。昭和40年のことです。しかし長女の姉とはその後も音信不通状態が続きました。ようやく名古屋にいると消息がわかり、再会できたのは昭和50年のことでありました。
なお廃人同様になってしまった父のことですが、結局父は昭和38年4月に死亡しておりました。自殺したようです。そのことを知ったのは、長女の姉と再会した直後の昭和50年頃のことです。
生前は私達姉妹にとっては、怖い、うっとうしい存在の父でした。「兵隊ぼけで帰ってくるくらいなら、いっそのこと戦死していてくれれば良かったのに」と何度も思いました。でも今考えて見れば、父もまたあの戦争の犠牲者です。かわいそうな存在だと思います。
3, 最後にこの裁判にかける私の思いを述べます。
現在私は現住所地において、夫と2人暮らしです。
私が裁判官に是非ともご理解いただきたい点は、あの戦争と空襲によって何もかもなくした者がどんな悲惨な人生を歩まなければならなかったかという事です。
私達家族はあの戦争、あの空襲で全ての財産を失いました。家族もバラバラになってしまいました。真面目で良い人だった父もあの戦争で廃人同様になり、苦しみの中で自らの命を絶ちました。母は戦後まだ幼い私達のために限界まで働き、遂に栄養失調と過労で死んでしまいました。バラバラになった私達姉妹はその後本当に長い間、何処で何をしていたのかもわからないままそれぞれ必死で生活をし、十数年、二十数年も経ってようやく再会することができたのです。その間の生活は、本当に惨めなものでした。食べるものもなく、お風呂にも満足に入れず、親戚の人たちの目に遠慮しつつ、隠れるように生きてきたのです。もちろんこのような境遇で生きて来た人は私だけではありません。同じような境遇、あるいはさらに悲惨な境遇の方もおられると思います。けれども一番疑問に思うことは、同じようにみんなあの戦争・空襲で大変な目にあっているのに、どうして救済のある人と、そうでない人が分かれているのでしょうか。私達空襲被災者については、何故戦後一貫して何らの補償もないのでしょうか。
私個人の場合、このことに直接疑問を持つきっかけは「引き揚げ者」に対する補償のニュースを見た時でした。軍人さんやその家族だけが、あの戦争で傷ついたのではありません。抑留者も残留孤児も原爆被爆者も沖縄戦に巻き込まれた方も、そして空襲被災者である私達も、同じように戦争の被害者です。それがどうしてここまで私達だけ差別されなければならないのでしょうか。
昨年(2008年)6月安野輝子さんたちが空襲訴訟の原告を募集しているという新聞記事を見た私は、矢も立てもたまらず、原告になることを名乗り出ました。
裁判官におかれては、どうか私達の長年の苦悩に思いをいたし、良心に恥じない心のこもった判決を下されるよう心よりお願い申し上げます。
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