2009年12月7日(月) 午後2時〜 大阪地方裁判所 202号法廷
大阪空襲訴訟 第5回弁論の報告
原告の中本清子さんと、弁護士2名が意見陳述をしました。
提出した書類のページ   今回提出した第4準備書面 word PDF

 ◆内容◆
  原告 中本清子さんの意見陳述
弁護士 西 晃 の意見陳述 (空襲被害の実相を述べる意味)
弁護士 大前治 の意見陳述 (原告らが受けた被害、空襲の実態)




意 見 陳 述

  2009年12月7日        .
原告  中 本  清 子   
,

 (昭和14年3月12日生)      ,

 私は第一次訴訟原告の中本清子です。

1, 6月7日空襲の日の出来事をお話しします。 
  私は昭和20年6月7日、大阪市都島区中宮町(現内代)の自宅で空襲にあいました。当時私は6歳、国民学校1年生でした。悪夢のような一日の始まるその日の朝,早くから「空襲警報」のサイレンが鳴り響いていました。班長さんの「空襲警報発令,皆さん早く非難して下さい」の声に,母と私は大急ぎで「防空ずきん」をかぶって,位牌をひっつかんで防空壕に急ぎました。 
  当時,私は母(32歳)と長女の姉(15歳),母の妹(25歳、電話局勤務)と一緒に女ばかり4人で住んでいました。明治41年生まれの父(当時37歳)は「お国に一命を捧げる」といって入隊してしまいました。三女の姉(9歳)は学童疎開で石川県のお寺にお世話になっていて,家にはいませんでした。長女の姉は学校へ,叔母は電話局へ行った後でした。
  母と私は防空壕に入ったのですが,近所の人ではない見ず知らず人も入っていて,防空壕の中はぎっちり一杯でした。そのうち,凄い爆撃音が響いてきました。私たちの家,近所の家々が燃え始めました。防空壕の中も熱くなってきましたので,皆,外へ出始めました。一面,黒煙と炎で,阿鼻叫喚の巷と化していきました。私と母は頭から布団をかぶって,位牌を抱きしめて「なんまんだぶつ,なんまんだぶつ」と唇の色もなく唱えていたことをはっきりと覚えています。
  「ヒルルーン」「ヒルルーン」「ボカン」という爆発音が周りで炸裂しました。焼夷弾が落下してくる時の空気との摩擦音「ヒルルーン」「ヒルルーン」という音が「ボカン」という音よりも不気味でした。「ボカン」という音だとどこに落ちたかがわかりますが、「ヒルルーン」「ヒルルーン」という音は何処に落ちるのかがわからないのでより強く恐怖を感じました。その音に怯えながら母はひたすら「なんまんだぶつ」と念仏を唱えておりました。
  当時,私たちの家の近くに,秘密鉄道といわれていた軍の物資を運ぶ鉄道がありました。そこまで一所懸命にたどり着き、その線路の石垣にもたれて,一面焼け野原になった,自分たちの家あたりを呆然と眺めていました。その時普通は見ることの出来ない大阪城が遠くに青い色のままに見えたことを今でも覚えています。
幸い母と私2人とも無事でしたが、家はもちろん、箸一膳に至るまで家財道具も全て消失してしまいました。

2,空襲後のことをお話しします
  この空襲の日を境に、その後は本当に苦労の連続でした。焼け残った家を借りて暮らしを立て直そうとした母でしたが、働くところも全くありませんでした。頼りの父は出征後生死も定かではありませんでした。三女の姉も疎開から帰り、母子4人暗澹たる気持ちで日を送っておりましたが、結局父の兄が四国の愛媛県宇和島に住んでいるのでそこを頼る事になりました。6月の空襲直後のことです。三等の船底に揺られて宇和島に行きました。そこで何とか伝を頼って大きな家の蔵に住む事になりました。そこでの生活は惨めなものでした。食べるものもお風呂もなく、栄養失調と不衛生で体にでき物ができ、それがなかなか直らず往生したことを覚えております。
  母は伯母の口利きで、‘いりこ’売りの手伝いをして暮らしておりましたが、その蔵も長くは借りられず、住むところが無くなりましたので今度は母方の祖母の実家がある岩手県へ行くことになりました。8月15日の終戦前のことです。
  満員の汽車に乗って岩手県まで行きました。そこは農家でしたので食べる事は何とか出来ましたが、突然3人の娘を連れて厄介になりに来た事に、その親戚の人たちもいい顔はしません。まして母は大阪生まれの大阪育ち、農家の手助けにはなりません。母はよく夜布団の中で泣いていましたが、私達にはどうすることも出来ませんでした。その年(昭和20年)の秋になって、大阪に残っていた叔母から、「アパートが見つかったので大阪に帰って来るように」言ってくれましたので、母娘4人みんなで大阪に帰ることになりました。
  そのような経過で昭和20年秋、大阪に帰りましたが、もちろん大阪の暮らしも楽ではありません。全く仕事がありませんでした。結局大阪では生活することが出来なかったので今度は山口県の親戚(父親方)を頼って山口に移り住むことになりました。
  このように、私は母に連れられ、6月の空襲の後、その年の秋までの間に、大阪から愛媛、その後岩手へ、それから再び大阪に戻り、また山口へと親戚宅を転々としました。私達が大阪から山口に移転した後に、行方不明になっていた父が復員して来ました。昭和20年中だったように思います。父は戦争で人格が全く変わってしまっていました。戦前は米屋を営んでおり、真面目一方で立ち小便も出来ない人と母から聞かされておりました。米屋も繁盛しており、比較的良い生活だったようですが、軍隊経験と敗戦のショックから、お酒を飲むようになり、精神的に病んでおりました。夜中に突然「ただいま帰還しました!」と軍隊用語で、大声で叫ぶこともしばしばで、まともに働けず、アルコール中毒になっていました。そんな父は、復員して後、数ヶ月は一緒に暮らしておりましたが、その後「働くために神戸に行く」と言って家を出て行きました。昭和21年のことです。
  さて、山口に移り住んだ私達ですが、母はそこで病院の付添婦などをしておりました。が、生活するだけの給与がなく、仕方なく私達を親戚に預け、母一人で女中奉公に大阪に出て行きました。昭和21年か22年頃のことです。大阪で母は大きな会社の社長さん宅に住み込みで働き、朝から夜まで懸命に働きまました。
  そんな母は結局働きすぎて,昭和25年に、肝臓を悪くして山口に帰って来ましたが、それから10ヶ月ほどして死んでしまいました。昭和26年3月のことです。明らかに栄養失調と過労が原因でした。私が小学5年の冬でした。母はまだ38歳でした。
  母の死後、残された私達は、一時的に神戸の父のもとで暮らしておりましたが、やはり精神的に病んでいた父のもとでは生活できず、父から逃げるように各自バラバラになってしまい姉達の行方もわからなくなってしまいました。仕方なく私は叔父の養女にしてもらいました。それから長い年月が経過し、やっとのことで、当時神戸のコーヒー屋さんで、住み込みで暮らしていた三女の姉と再会することが出来ました。昭和40年のことです。しかし長女の姉とはその後も音信不通状態が続きました。ようやく名古屋にいると消息がわかり、再会できたのは昭和50年のことでありました。
  なお廃人同様になってしまった父のことですが、結局父は昭和38年4月に死亡しておりました。自殺したようです。そのことを知ったのは、長女の姉と再会した直後の昭和50年頃のことです。
  生前は私達姉妹にとっては、怖い、うっとうしい存在の父でした。「兵隊ぼけで帰ってくるくらいなら、いっそのこと戦死していてくれれば良かったのに」と何度も思いました。でも今考えて見れば、父もまたあの戦争の犠牲者です。かわいそうな存在だと思います。

3, 最後にこの裁判にかける私の思いを述べます。
  現在私は現住所地において、夫と2人暮らしです。
私が裁判官に是非ともご理解いただきたい点は、あの戦争と空襲によって何もかもなくした者がどんな悲惨な人生を歩まなければならなかったかという事です。
  私達家族はあの戦争、あの空襲で全ての財産を失いました。家族もバラバラになってしまいました。真面目で良い人だった父もあの戦争で廃人同様になり、苦しみの中で自らの命を絶ちました。母は戦後まだ幼い私達のために限界まで働き、遂に栄養失調と過労で死んでしまいました。バラバラになった私達姉妹はその後本当に長い間、何処で何をしていたのかもわからないままそれぞれ必死で生活をし、十数年、二十数年も経ってようやく再会することができたのです。その間の生活は、本当に惨めなものでした。食べるものもなく、お風呂にも満足に入れず、親戚の人たちの目に遠慮しつつ、隠れるように生きてきたのです。もちろんこのような境遇で生きて来た人は私だけではありません。同じような境遇、あるいはさらに悲惨な境遇の方もおられると思います。けれども一番疑問に思うことは、同じようにみんなあの戦争・空襲で大変な目にあっているのに、どうして救済のある人と、そうでない人が分かれているのでしょうか。私達空襲被災者については、何故戦後一貫して何らの補償もないのでしょうか。
  私個人の場合、このことに直接疑問を持つきっかけは「引き揚げ者」に対する補償のニュースを見た時でした。軍人さんやその家族だけが、あの戦争で傷ついたのではありません。抑留者も残留孤児も原爆被爆者も沖縄戦に巻き込まれた方も、そして空襲被災者である私達も、同じように戦争の被害者です。それがどうしてここまで私達だけ差別されなければならないのでしょうか。
  昨年(2008年)6月安野輝子さんたちが空襲訴訟の原告を募集しているという新聞記事を見た私は、矢も立てもたまらず、原告になることを名乗り出ました。
  裁判官におかれては、どうか私達の長年の苦悩に思いをいたし、良心に恥じない心のこもった判決を下されるよう心よりお願い申し上げます。

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意 見 陳 述

2009年12月7日                .
原告ら訴訟代理人              .
                    弁護士  西     晃       .

  代理人の弁護士西です。
  私の方からは、原告第4準備書面(損害総論)中の第2部分(被害総論を述べる意味)に関し、簡潔に意見陳述を行います。

  まず第一に、空襲被害の総論(実相)を述べることの意味は、空襲被害の実相と、国が戦後被害補償措置をとって来たその余の幾多の被害類型のそれとの間には、全く同様の本質・実質が存在している、このことを強調する点にあります。
  これまで弁論で主張してきたように、先の戦争は、国がその一方的判断で開戦を決定し、総動員態勢で国民を巻き込み、さらには国民に対し戦争からの回避を許さず、逃げる手段を奪うという形で参加を強制するものでした。それだけではなく、幾たびか、戦争それ自体を終結させる現実的可能性があったにもかかわらず、その時期を逸し、国民に甚大な被害が拡大することを十分認識しながら、無謀な戦争を続けていったのです。その帰結として戦争終結までに我が国は焦土と化し、戦争による夥しい犠牲者が発生しました。空襲被災による生命・身体の傷害、財産権の消失、一家離散、親族の喪失、孤児化等々も言うまでもなく、その戦争被害の一類型に該当するものです。
  これもこれまでの口頭弁論において詳細に主張してきたように、本件訴訟は、国が、他の戦争損害・戦争被害を順次何らかの形で救済する一方で、戦後現在まで長期にわたって一切の救済措置をとってこなかった事実につき、その差別的取り扱いの違法性(人間の尊厳を否定する程の差別性)を問うものです。そして空襲による被害の本質・実相が、戦争被害の実態そのものであり、他の戦争被害によるそれと全く変わらない事、従って空襲被災者のみを放置することの合理的理由は全く存在しないことを立証することにより、国の行為(不作為)の違法性を基礎づけるものであります。このように空襲被害の本質・実相を主張することの重要な意義の一つは、これまで原告らが主張してきた違法性を基礎づける事実、これを主張することにあります。

 次に、空襲被害総論(実相)を議論する意味のもう一つは、原告ら空襲被災者の被害実態が、まさに彼らの全人格的利益を全面的に否定し、人間としての尊厳を完全に否定する程の特異性・異常性を帯びていることを明らかにすることにあります。  
  詳細はすぐ後に相代理人の大前弁護士から述べますが、空襲被害が他の国家行為による法益侵害行為と決定的に異なるのは、その被害が、
 @ 単なる個別被害の集積にとどまらない空襲特有の非人道性をもつこと。
 A 刑事犯罪(有形力の行使)とは異なる被害の甚大性を有すること。
 B 瞬時かつ大量破壊により生じる複合的被害の性質を持つこと。
 C 生命、身体、家族、家屋、財産、人の連帯とコミュニティーを一気に喪失させること。
 D 逃げることが法的にも物理的にも不可能な状態に追い込まれる中で発生すること。
 E その被害が、その後の戦後64年の苦難の始まりであり、恐怖、悲しみ、疲労、喪失感、それら全ての元凶となる性質のものであること。

  という多様な要素を総合的に含んでいるという点にあります。このような空襲被害の被害属性は、個々の原告のみならず、空襲被害者の被害の特性を類型化したものです。そして個別原告の被害にはこれらの被害総論で述べた特性が分離不可能な状態で混在・内在しているのです。それはまさに、訴状で原告らが主張した「平和憲法の下、日本国民の一人として人間らしく生きる権利を長年に亘って踏みにじられたという意味において、精神的・経済的損害の総体を反映する全人格的な」損害そのものであります。空襲被害総論を述べることのもう一つの重要な意味はこの点にあります。

  私の方からは最後に、裁判官に対する要望を述べておきたいと思います。それは被害主張の受け止め方に関してで、あります。
  裁判官におかれては、「空襲の実情、その殺戮の威力と残虐性、恐怖感、非人道性、無慈悲性」を、被害を受けた現場に思いを致し、その現場に生きた人間の視点で想像して頂きたいと思います。遠くから、あるいは地図の上から見下ろすという姿勢では到底空襲被害の本質・実相はわからないと思います。 
  万一、空襲被害の実相を理解しようともしない裁判官(本件審理を担当されている現にここにおられる裁判官のことではありません)が、安易に「受忍論」に依拠し、現に厳しく差別され続けている原告の皆さんを前に「戦争被害は等しく受忍すべき」などという禅問答のようなお題目を述べるのならば、それは自らの人間としての全存在意義を全てかけて訴訟提起をしている人生の先輩方に対し、あまりにも非礼な態度と言わなければなりません。
  そのことだけは一言申し添えておきたいと思います。

以 上  .

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意  見  陳  述

2009年12月7日                 .
原告ら訴訟代理人               .
  弁護士  大 前   治        .

1 なぜ空襲は原告ら一般市民に甚大な被害を与えたか
(1)一般市民を標的とした空襲のために焼夷弾を開発

 原告ら第4準備書面の「第3」では、「なぜ焼夷弾による空襲は原告らに多大な被害を及ぼしたか」を論じています。
 まず、焼夷弾を投下する爆撃機の映像を示します。

(写真1)
      

 日本本土空襲では、火薬爆弾(爆発力を用いた攻撃)と焼夷弾(油脂等を燃料とする燃焼力によって建造物や人体を火焔に包みこむ攻撃)が使用されました。1943年頃からの初期空襲は、軍事基地や軍需工場を標的として火薬爆弾が多用されました。これに対し、1945年2月4日の神戸空襲以降は、都市全域を標的として焼夷弾による空襲が繰り返されるようになりました。
 もともと焼夷弾は、軍事拠点ではなく原告ら一般市民の居住地を標的とするため開発されました。米軍は、1943年5月から9月まで、米国ユタ州ソルトレイク市の実験場に、畳や箪笥(たんす)も置かれた木造のリアルな日本家屋を設置して焼夷弾実験を繰り返し、威力を向上させた焼夷弾を用いて空襲を実行したのです。

(2)焼夷弾の破壊力・・・原告ら市民に対する瞬時かつ重大な被害
 米軍が1943年に開発したM69焼夷弾は、強い燃焼力を有するナパーム(ゼリー状の油脂ガソリン)を用いたものです。木造家屋の屋根を容易に突き破って落下する構造でした。
 建造物を突き破ると時限式導火線が発火し、5秒以内にナパーム油脂に引火し、それが瞬時に約30メートル四方に撒き散らされて一気に周囲を火の海にします。
 ナパーム油脂の燃焼温度は1315℃(華氏2400度)もの高温です。鉄の融点は1535℃ですが、建物や家財に用いられている鉄材が解け始める温度は約700℃です。つまり焼夷弾のナパーム油脂は、鉄をも溶かすほどの高温です。
 そして、多数の建物が燃焼することで生じる輻射熱により、火災時の大気は数千度に達するとされています(甲A1・94頁)。
 急激な温度上昇により、焼夷弾に直接触れていない人間や物体が発火する現象も生じました。空襲被災者のなかには、「火の海の中を逃げている人の頭部(防空頭巾)が突然発火するのを見た。」などの記憶を述べる者もいる。高温による人体損傷(火傷、熱中死)や火災旋風の発生による被害も生じました。
 このように、焼夷弾の威力は、@瞬時に発火し、A広範囲に燃え広がり、B極めて高温であるため破壊力が強いものでした。それゆえ、原告ら一般市民が受けた被害は極めて重大なものとなったのです。

(3)焼夷弾攻撃の一挙大量性および計画性
 前述のとおり、M69焼夷弾(単体)一発だけで約30メートル四方を火の海にする威力があります。これが、一機のB29爆撃機に最大3840発搭載できます。実戦では飛行距離と燃料との関係で少な目に搭載された例もあるようですが、少なくとも1機あたり1千数百発以上を搭載していました。
 いま示している写真1には、B29は3機しか写っていませんが、写真の上(枠外)からも焼夷弾が落ちてきているのが分かります。この写真を撮影したカメラマンはまた別のB29に乗りこんでいます。大阪大空襲では、1945年3月13日にB29が274機、同年6月1日にB29が458機、同年6月7日にはB29が409機とP51爆撃機が138機という大編隊が飛来して、大量の焼夷弾を一斉投下しました。
 しかも、ただ手当たり次第に焼夷弾をばら撒いたのではありません。各空襲ごとに爆撃照準点が定められ、15メートル間隔に焼夷弾が落下するよう投下間隔管制装置を作動させて、低空飛行により正確に焼夷弾を投下したのです。

2 原告らに甚大な被害を与えた空襲の実態
(1)大量の焼夷弾が雨のように降る、死の恐怖

 空襲体験者は、空襲によって極度の恐怖に陥れられました。
 夜間の空襲で、焼夷弾が投下される写真を示します。

(写真2)
      

 ある者は、「火の玉が次から次へと降り注ぎ、大きな火の群となる。ザァーという恐怖の音、体験者であれば忘れることのできないあの恐怖の落下音が頭上におおいかぶさってきた」と述べています。
 あまりに多数の焼夷弾が落ちてくるので、夜間の空襲のときに空が真昼のように明るくなったといいます。次の写真のように、乱れ落ちるように降ってくるのです。

(写真3)
      

(2)通常の火災を上回る強い燃焼力と高温
 焼夷弾の強い燃焼力は、人の身体や衣服へ瞬時に引火・燃焼させてしまいます。
 どの被災者も、自分の身を守って逃げるだけで精一杯の状態でした。「消しても消しても火がつく」という状態で、目の前で火だるまになっている人を助けることもできません。
 熱線の威力も甚大です。生後2週間の子どもが、空襲で大量の熱風と火の粉を浴び、2日後に「真っ黒な血を吐いて死んだ」という記録も残っています。
 都市全体が一つの炎に包まれたような状態となり、大阪府警察局の記録によれば、1945年6月1日の大阪大空襲の際、火焔の上昇は高度七千メートルに及んだとされています。
 次の写真4は、大阪市福島区を襲った空襲の黒煙の写真です。夜間の空襲は焼夷弾の光と火災の炎で明るくなりましたが、昼間の空襲は黒煙で日光が遮られ、空は夜のように暗くなったといいます。

(写真4)
      


(3)逃げまどう人々を絶望に追い込んだ空襲の実相
 被災者は、巨大な火焔と黒煙の下を逃げ惑いました。
 空地にも道路にも橋の下にも、行き場を失った大量の人が詰め寄せ、あらゆる方向から吹き寄せる火焔や熱風に晒されました。1945年3月13日夜の大阪大空襲では、御堂筋も道幅一杯に炎が流れていました。ある被災者は、「御堂筋は炎の川となり、赤い火の風が乱舞している。道の向こう側、大丸とそごうのそばにも、こちら側にも人がいっぱい。火の粉と炎の風は、人々の前に立ちふさがっている。『ここで死ぬ』と思った。」と述べています。
 その御堂筋を含む、大阪市難波付近の空襲後の様子です。御堂筋の両側を含む大型建物が軒並み破壊され、広大な焼け野原となっています。

 (写真5)
      

 川には、逃げ場を失った多数の人が飛び込みました。しかし、火傷や負傷のため身動きできず溺死したり、水面を吹き荒れる熱風に晒されて死亡した例も数多くあります。空襲後、大阪地方裁判所前の土佐堀川にも、潮の満ち引きに合わせて上流へ下流へと漂流する無数の遺体が浮かんでいました。次の写真6は、東京大空襲の写真ですが、大阪でも同じように悲惨な光景がみられました。

(写真6)
      

 自宅内に設置した防空壕内で死亡する例も多数にのぼりました。被告国は屋外ではなく屋内に防空壕(待避所)を作るよう指示していたので被害が拡大しました。
 上昇気流で生じた竜巻による被害も生じました。
 空襲後には、焼け野原となった街中いたるところに死体が横たわりました。ミイラのように茶色に焦げており男女の区別さえつかない遺体、焼け縮んでしまい大人か子どもか判然としない遺体も数多くありました。火傷のため全身が約3倍にふくれあがった死体も見られたといいます。
 通常爆弾(火薬爆弾)による爆風の威力も甚大でした。背負っている乳児の頭が爆風で吹き飛ばされたのに気付かないままの母の姿を見たという証言も残されています。空襲後、首を吹き飛ばされた死体が数多く散乱していたという目撃談もあります。
 逃げまどう人々を追いかけるような機銃掃射による死傷も多数にのぼりました。大阪地方裁判所の前を流れる堂島川にも、1945年6月1日の大阪大空襲の際には機銃掃射により何本もの水柱があがったといいます。
 負傷して生き残った者も、十分な治療を受けることはできず、医薬品が窮乏したため麻酔なしで手術を受けることを余儀なくされたり、病室で身体にうじ虫がわく状態で死を迎えた者も数多くいます。

(4)映像でみる空襲被害の実相
 これから見る写真からも、空襲が原告ら一般市民にいかに甚大な被害をもたらしたかが分かります。
 まず、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の惨状です。

(写真7)
      

 この写真7では、おびただしい数の遺体が積み上げられ、その多くは身元確認も不可能な状態です。

(写真8)
      

  この写真8は、幼い子どもと母親の死体です。子どもを背負っていた背中だけは黒焦げにならず白いままです。黒焦げになっても我が子だけは手放さないという思いで、背負い続けていたのかも知れません。

(写真9)
      

 この写真9は、1942年4月の東京初空襲のものです。爆弾の直撃を受けた一家6人が即死しました。遺体は黒焦げで原形をとどめていません。

(写真10)
      

 この写真10は、路上に黒焦げの遺体が散乱している様子です。東京の写真ですが、もちろん大阪でも全国でも、およそ空襲を受けた町ではどこでも見られた悲惨な光景です。

(写真11)
      

 これも東京大空襲の光景です。遺体の検案(検死)をしているところとされていますが、黒焦げの遺体であり、身元不明のまま埋葬された者も多いと言われています。
 次の写真(写真12・13)は、1945年5月24日の東京大空襲の際、都電青山車庫に収容された遺体です。

(写真12)
      

(写真13)
      

 次の写真(写真14・15)は、東京都上野に安置された遺体です。黒焦げになっていないところから、酸欠や一酸化炭素中毒死と思われます。

(写真14)
      

(写真15)
      

 この写真15を一部拡大すると、次の写真16になります。死者の表情がよく分かります。無念の表情、苦悶の表情を浮かべた大人ばかりでなく、安らかに眠っているような子どもの顔もあります。

(写真16)
      

 次の写真17は、空襲を受けた東京・有楽町駅ガード下の惨状です。逃げまどう市民が次々に倒れていきました。

(写真17)
      

 次の写真18は、東京都墨田公園に設置された仮埋葬所です。狭い所に墓石もなく埋められました。身元不明の者も多数含まれています。

(写真18)
      

3 空襲によって原告らが受けた被害
(1)空襲に遭ったこと自体が重大な被害である

 原告らは、このような空襲を直接に受け、死の恐怖を味わったのです。今でも、脳裏に強く刻み込まれた忘れられない記憶となっています。このような空襲を受けたこと自体が、被害であるといえます。

(2)空襲による家族の死亡
 原告の中には、幼少時に空襲で親を亡くした者もいます。空襲の後、養育や生活を誰にも頼れず、孤独と苦難の道のりを歩んできました。
 終戦後の混乱期には、原告ら空襲被災者は社会から冷遇され、街中に浮浪者があふれ、餓死者も大量に出ました。十分な援助施策が施されることもなかったのです。
 戦災孤児は社会の害悪の如く「浮浪児」と呼ばれ、戦後数年を経ても、牢屋のような「鉄格子」の施設に収容される例も多かったとされています。次のような新聞記事(写真19)もあります。すでに終戦から約3年目、人権を尊重する日本国憲法下で、戦災孤児たちが「鉄格子」の中に収容されていたのです。

(写真19)
      

 次の写真20のように、檻の中に閉じ込められた戦災孤児もいました。戦災孤児として終戦後の時代を生きた者の多くは、当時の悲しみと苦しさを今も背負っています。

(写真20)
      

 生き残った者の中には、自分だけが生き残ったことについて罪悪感を感じている者もいます。火の海の中で、家族を助けることができなかったことを悔やんでいる者もいます。
 幼少時に受けた空襲によって家族を奪われ人生を変えられた苦難は、今日まで64年以上にわたり原告を苦しめているのです。

(3)身体の損傷、後遺障害
 原告の中には、空襲により身体を負傷し、現在まで後遺症に苦しんでいる者もいます。空襲直後は、同時に多数の負傷者が生じたうえ、火災により医療施設や医薬品も失われ、医療従事者も十分確保できない状態でした。その点でも、交通事故による被害などとは大きく異なります。
 外貌による差別、就職や結婚の困難、それによる困窮など、被害は深刻です。
 幼少時に死の恐怖を味わい、家族や近隣住民の死亡に直面し、家屋や財産を一挙に失う経験をしたことは強いトラウマになります。現在も原告の記憶から離れることはありません。

(4)家屋、財産の喪失
 空襲は、自宅や自営店舗の物理的破壊だけでなく、近隣住民との関係(互いに助け合うような人的関係、コミュニティー)をも一挙に破壊します。自営業者であれば、取引先や営業基盤を含む営業用資産を一挙に喪失し、誰からも補填や補償を受けられない。
 生活の糧、生きていく手段を根本的に奪い去られているにもかかわらず、すべて自力で生活再建をしなければならない点で、放火や窃盗による個別的被害とは比較にならないほど重大な損失が生じているといえます。
 空襲により幼少時に自宅を失った原告らは、終戦後に新たに居住地を見つけて生活基盤を確保することも容易ではなく、困窮した生活を余儀なくされた。
 
(5)その後の救済措置の不存在、長期の放置
  すでに原告ら第3準備書面15頁以下で述べたとおり、空襲被災者への援護は終戦時の重要課題であり、そのことを被告国は強く認識していました。にもかかわらず被告国は、被災者への援護措置を定める戦時災害保護法を廃止し、その後も被災者への援護を拒み続けました。
  放置され続けた原告は高齢化し、もはや残された時間はありません。空襲被災者の置かれた状況は深刻さを増しています。高齢のため体力が衰えたり収入が減少することが困窮の度合いを一層高めており、被害は日に日に深刻化しているのです。
  終戦から30年後の1975年(昭和50年)に、全国戦災傷害者連絡会代表である杉山千佐子氏は新聞紙上で「次第に老い先短くなる私たちの悲願をかなえて下さい」と訴えました(甲E17号証)。次の写真20のとおりです。このとき既に、被災者らに残された時間はないという切実な訴えがなされていたのです。更にそれから34年が経過して現在に至っています。もう猶予はありません。一刻も早く原告ら空襲被災者への補償がなされるべきです。

(写真20)
      

4 最後に
 西代理人も述べたように、原告らは人間としての存在意義を全てかけて訴訟提起をしています。原告らは、いま述べたような悲惨な空襲の下に身を置き、言語に絶する壮絶な被害を受け、その被害は現在まで続いています。
 裁判所におかれては、法の適用による人権救済と正義の実現という司法府本来の役割を果たしていただき、原告の願いにこたえる公正な判断をされることを強く求めます。

以 上   .

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