2009年6月3日(水) 午後2時〜 大阪地方裁判所 202号法廷
大阪空襲訴訟 第2回弁論の報告
原告の藤原まり子さんと、弁護士2名が意見陳述をしました。
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  ◆内容◆
   原告 藤原まり子さんの意見陳述

弁護士 高木吉朗の意見陳述 (戦争終結を遅らせた責任)
弁護士 大前治の意見陳述 (国民の防空義務・消火義務)


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意 見 陳 述

平成21年6月3日        .

原告    藤  原   ま り 子    .

  私は、終戦の年の昭和20年3月13日の夜に大阪市阿倍野区の自宅で生まれました。ですから、私には、空襲の記憶は直接にはありません。でも、私の身に降りかかった戦争の苦しみは、一日も忘れたことはありません。それは、毎日の日常生活のなかで言葉に表現することのできないほどつらい苦しみがあるからです。

  私が生まれたとき、世の中は戦争中で大変な食糧不足だったそうです。当時、私の両親と一緒に暮らしていた叔母の話ですと、そんななかでも私の産声は元気いっぱいだったそうです。ちょうど父方の祖父が同じ月の5日に病死したばかりでしたので、両親や叔母たちは、「おじいちゃんの生まれ変わりや」と大喜びしてくれたそうです。

  私が生まれた2時間後の午後11時50分のことです。大阪の上空にB29爆撃機が270機もあらわれたということでした。大阪で最初の民間人をねらった大規模な無差別爆撃のはじまりでした。13日23時57分から14日3時25分にわたり爆撃が続き、死者3,987名、不明者678名の犠牲者がでたそうです。
  私の左足はこのときに大けがを負うこととなったのです。

  母は、私を自宅で出産しました。先ほども述べたように家族たちは、私の誕生を大喜びしてくれたのですが、その喜びにひたる間もなく空襲が始まったのです。
  父と叔母は、私を産んだばかりの母と生まれたばかりの私を布団ごと引きずるようにして防空壕に運んでくれたそうです。この防空壕は、私が生まれる少し前に亡くなった祖父が自分で地面を掘ってつくったものでした。
  小さな防空壕でしたので、母と私が入れば一杯になってしまい、父や叔母、私の姉は、当時、歯医者をしていた自宅そばの父の診察室に隠れていたそうです。父は、診察室より防空壕のほうが安全だろうと考え、私と母を優先して防空壕に入れてくれたのでした。

  ところが皮肉なことに、私と母が避難していた防空壕のなかに焼夷弾が落ちてきたのです。そして、私の産着にも火が飛び移りました。母は火に追われるようにして、防空壕の中から這うようにして逃げ出したということでした。防空壕は、実際の爆撃には、なんの役にもたたなかったのです。
  防空壕から這い出た母は、「中に赤ちゃんが・・」と大声で叫び続けたそうです。母の叫び声を聞きつけた通りがかりの男の人が、火がついた防空壕になかに飛び込んで、私を助けてくれたのです。
  燃えさかる防空壕から私を助け出してくれた男の人は、私を母に渡して、そのまま名前も告げず、どこかに立ち去ったそうです。その人がいなければ私は、今、ここにはいません。
 
  命こそは助かったものの産着に燃え移った炎で、私の左足はやけただれ、膝の関節から下が内側にむけてぐにゃりと曲がってしまいました。防空壕に駆けつけてきた父は、すぐに近くの焼け残った病院に私を連れていってくれました。でも、その病院は、私と同じように焼夷弾でけがをした患者さんであふれかえり、充分な薬もなく、私の治療は火傷した左足にアカチンを塗るだけだったそうです。私の左足の先にアカチンを塗っているとき、私の左足の指は五本ともポロポロと落ちてしまいました。こうして、生まれたときには、かわいい両足があったはずの私でしたが、数時間には、左足に大けがを負うこととなったのです。

  当然のことですが、左足に大けがをしたときには赤ん坊だった私も、どんどんと成長していきます。でも、私の左足は火傷のないほかのところのようには成長していきませんでした。右足は成長して長くなってくるのに、左足はそれほど成長せず、物心ついたときには左右の足の長さが随分と違っていました。それで、私は、健康な方の足を曲げて立っていたのです。
  また、私の左足は成長しないだけではなく、とても細く、冷たく、しもやけができ、かゆくて大変でした。

  身体が大きく成長するにつれて、左右の足の長さの違いはどんどん大きくなっていきました。そのため両足で立つことが難しくなってきました。それで小学校にあがる少し前まで、両親と外出するときには、母の背中におぶられたり、乳母車に乗せられていました。
  
  私が、自分の足が「みんなとは違う」と気づいたのは、6歳のころでした。
ある日、母や叔母につれられて夜遅くの銭湯に行きました。母たちは、左足のことで私が嫌な思いをしないように、他の子どものいない夜遅くを選んで銭湯に連れて行ってくれていたのです。
  でも、その日は、私の他にも小さな子どもがいました。その子は「あの子の足、へんなかたちして、気持ち悪い」と母親に話しかけていました。その子のお母さんは、その子に「悪いことをしたら、あんなんになるから」と応えていました。小声ではありましたが、その母子の会話は、幼かった私の耳にはっきりと届きました。私は、「何も悪いことはしていないのに・・」と心の中で叫びました。

  そんなことがあって、小学校にあがる少し前のある日、母に「おかあちゃん、なんで私の足、みんなと違うの?」と尋ねたことがありました。
  そのとき、母は「戦争のせいや」と悲しそうな目で、怒ったような声で教えてくれました。当時の私には、それがどういうことなのかわかりませんでしたが、そのときの母の様子に、小さいながらも「これ以上聞いたらアカン」という思いをしたことを覚えています。それで、子どものころはそれ以上、深く尋ねることはしませんでした。母といろんな話ができるようになったのは、ずいぶんと大人になってからのことです。
 
  小学校にあがるときには、左右の足の長さが、随分と違ってしまっていました。それで、このままでは小学校に通えないということで、両親は、医師に相談したそうです。医師からは、ケロイドで変形した左足に補装具をつけ、右足と同じ長さにすれば立って歩けると教えられました。
  私は、嬉しくてすぐに補装具を作ってもらいました。でも、普通の人のように一人で自由に歩けるわけではありません。小学校1、2年生のときは、家から学校まで遠かったので、2つ上の姉が私の手を引いて教室まで連れて行ってくれました。
 
  小学校3年生のときに別の校区にある小学校の近くに引っ越しました。私の通学のためでした。ところが、その小学校では、「うちの学校は障害者を受け入れる設備がない」と入学を断られました。
  母は、近所の子どもたちと同じように学校へ行かせたいという思いで、学校に何度も何度もお願いしたそうです。母の熱意が通じたのでしょうか、やっと転校が条件付きで認められました。遠足のときは必ず家族が付き添うことが条件でした。
 
  学校からつけられた条件を守るために、学校の遠足のときは、いつも父が仕事を休んで付き添ってくれました。
  ところが、5年生の遠足の時、父が体調を崩して付添ができなかったことがありました。このままでは私は遠足に行くことができません。それで、母は、私を遠足に行かせたい一心で、名も知らない大阪市立大学の学生さんに付添を頼んでくれました。その学生さんに、おぶられたり手を引かれたりして、私は遠足に行くことができました。遠足の先は、六甲山でした。
  子ども時代、なんとか楽しく過ごすことができたのは、みんなと同じように学校生活を送らせたいとの思いで、私を見守ってくれた両親のおかげはもちろんのこと、いろんな人の温かい援助があったからだと感謝しています。

  私の左足は、右足のひざくらいの長さしかありませんでした。しかも左足は内側に曲がっています。その左足をすっぽりと補装助具にはめ込むのです。
  そのため補装具は随分と太いものになってしまいます。それで13歳までは、左足につけた補装具を隠すために年中、太めの長ズボンをはいていました。
  13歳といえば、おしゃれをしたくなる年頃です。補装具を隠すために年中、長ズボンをはいていた私は、どうしても友だちと同じようにスカートをはきたくてたまりませんでした。
  私は、そんなことを母に言えば、母を「悲しませる」と思っていましたので、なかなか言い出すことができませんでした。でも、ある日、思い切って「どうしてもスカートがはきたい」という自分の気持ちを母に伝えました。そのとき母は黙ったまんまでした。私は、母を悲しませてしまったと後悔しました。
 
  そのときは黙っていた母ですが、2,3日して、厚生年金病院に連れて行ってくれました。その病院で、義足でスカートをはいている女の人を紹介されました。
  その人の義足は、スマートな形で、膝のところが曲がるように作られていました。その人は、義足のまま颯爽とスカートをはいていました。その人のスカート姿を見て、すぐに左足の切断手術を受けたいと両親にお願いしました。両親も私の願いを聞き入れてくれました。
  私は、大腿部から下を切断する手術を受け、義足をつけることとなりました。補装具と比べると随分と見た目も、使い勝手もいいのですが義足になれるまでの訓練はとても大変でした。何度も何度も転びました。それでも、これでスカートがはけると思うと嬉しくてたまりませんでした。
 
  中学3年生のとき四国へ修学旅行に行きました。楽しい思い出になるはずでしたが、私にとって、とても悲しい思い出になりました。みんなに遅れないように、みんなに迷惑をかけないようにと頑張って歩きましたが、義足をはめているところの皮がめくれてとても痛くて歩けなくなったのです。一緒に歩いてくれた友達に「私をここに置いてみんなのところへ行って、迷惑をかけるから。もう私ここまでこれたから死んでもいい」と言いました。私も友達も声を出して泣きました。
 
  あの空襲のときに死んでいたら、こんな悲しい思いや、いろんなことで悩むこともなかったのに・・・と何度、思ったことでしょう。
  戦争さえなかったら自分の足で走れたのに・・・階段もスタスタと昇り降りできたのに、すてきな洋服を着て、ペッタンコの靴ではなくハイヒールやサンダルも履けたのに・・・五体満足で歩けたらどんな感触なのか、また、どんなに嬉しいか。
  私は、生まれて一度も自分の足で歩いたことがありません。自分の足で歩きたいです。
  
  私の誕生日は、3月13日です。でも母は、4月6日の姉の誕生日にあわせて私の誕生日を祝い、絶対に3月13日にお祝いをしようとはしませんでした。それは、その日が私の左足が自由を奪われた日でもあったからです。
  今にして思えば、母は「自分のせいで子どもに障害を負わせてしまった」と自分を責め続けてきたのだろうと思います。そう考えると、とても胸がいたみます。
 
  私は、24歳で結婚し、3人の子どもにも恵まれました。最初にできた子どもの足をはじめて見たとき、「なんとかわいい両足なんだろ。自分にもこんな小さな両足があったのに」と心の底から思いました。また、生まれたその日のうちに焼けただれた自分の子どもの足をみたときの母の思いはどんなものだったろうと思うといたたまれません。戦争さえなかったら私も両足があったのにと思うと残念でなりません。戦争が本当に憎いです。

  もう20年以上前ですが、長女が中学生のときに母親が義足をしていることで、友だちにいじめられたり、からかわれたりしていないかと言うことを聞いたことがありました。私が、子どもたちの参観日などに行くと、やはり私の義足に、子どもの同級生たちの注目が集まったりすることがあったからです。
  そのとき長女は、「おかあちゃん、そんなんホントのことやからしかたないやん。気にしてへんよ」とあっさりと応えてくれました。
  そのときは、それ以上の話はしませんでしたが、子どもながらに母親のことを気遣ってくれた長女の言葉が心にしみました。

  今は、かわいい孫が6人います。いろんな人に支えられ「普通の幸せ」をえることができました。義足でも自転車にのり、買い物に行くこともできます。たぶん街で私を見かけた人は、私のことを、「どこにでもいる大阪のおばちゃん」と見ているだろうと思います。

  でも、私は「戦争さえなければ」という悔しい気持ちが消えたことはありません。戦後64年にもなります。64歳にもなると、まわりの友人たちは、よく温泉の話をします。でも、私は温泉に入ったことがありません。義足をはずすと一本足になります。ケンケンでは脱衣所から湯船まで行くこともできないからです。温泉にも入れない自分がつらく悲しいです。
 
  私の義足は吸着式で足を吸盤で吸い込むようにして装着する仕組みになっています。ですから少しやせたりすると隙間ができて、うまくつけることができなくなってしまいます。そうなると隙間から空気の漏れるような音がしたり、肌がすれてすぐに赤くなってしまいます。逆に少し太るときつくなり痛くなるのです。
 
  私の朝は、まず義足をつけるところから始まります。毎日、義足をつけるたびに、自分には左足がないのだと思い知らされるのです。

  1972年ころ、なにかのおりに国に戦争被害者に対する補償を求める運動があるということを知りました。そのころの私は子育て真っ盛りでした。不自由な足で思うような子育てもできず、子どもたちにも辛い思いもさせていました。
  何も悪いことをしていない私や子どもたちがなぜ、こんな思いをしなければならないのかという思いが募り、その運動に参加するようになりました。私は、一所懸命、署名を集めたり、国会まで行って国会議員の先生に御願いもしました。
 
  それから30年以上にもなります。運動のなかで軍属やその家族には補償が出されていることを知りました。でも、同じように戦争で被害を受けた私たち一般の戦争被害者には、国はいまだに謝罪も補償もしていません。同じ苦しみを受けているはずなのに、どうして私たち一般の戦争被害者だけが我慢を続けなければならないのでしょうか。

  空襲の被害者は、私だけではありません。家族を失った人、障害を負った人、住むところを失った人・・・何千、何万の犠牲者がいます。
  私は、子どもや孫のためにも泣き寝入りはしてはいけないと思っています。あの戦争を風化させないために、またこれからの子どもたちの平和のためにこの裁判をしようと決意したのです。私たちの人生は、この先、あまりありません。
  どうか、私たち戦争被害者の声を、生き残った人はもちろん、死んでいって、もう声をあげることのできない人たちの声を、聞いていただきたいというのが私の願いです。

以 上   .

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意 見 陳 述

2009年6月3日                   .
原告ら訴訟代理人                  .
                    弁護士  高  木  吉  朗        .

1 はじめに
  原告らは、先に訴状において、条理上の作為義務の前提をなす先行行為の内容として、日本政府が無謀な太平洋戦争の開戦に踏み切り、さらに、戦争終結の時期を遅らせ、それによって、本来ならば避けられたはずの空襲を自ら招き寄せたことを指摘しました。
  今回は、私からはまずこの点について、訴状よりやや詳しく主張します。 
  原告らが主張する先行行為は、1941年12月に当時の日本政府が太平洋戦争の開戦に踏み切ったことに始まり、国民に未曾有の犠牲を強いた挙句、1945年8月にようやく終戦を迎えるまで、幾多の歴史的事実の積み重ねによって段階的に構成されています。 
  しかし、その中でも特にターニングポイントとなった3つの時点が重要です。その3つの時点とは、@日米の国力の差を無視して、無謀な太平洋戦争の開戦に踏み切ったこと、A1944年夏にマリアナ諸島が陥落し、米軍の手に落ちた結果、本土空襲の危険が現実化したこと、そしてB東京を始め全国各地で空襲が始まる直前の1945年2月、近衛文麿元首相が昭和天皇に戦争終結を上奏したにもかかわらず、結局戦争継続の方針が採られたこと、以上の3点です。
  これから、この3つのポイントを中心に述べていきます。

2 無謀な太平洋戦争の開戦
  まず、最初のポイントである、無謀な太平洋戦争の開戦についてです。太平洋戦争が勃発した最も大きな原因の1つは、言うまでもなく、1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争です。日中戦争の勃発によって、アメリカ・イギリスとの対立は決定的となってしまったからです。
  一旦始まった日中戦争をさらに拡大するかどうかについて、満州事変の立役者といわれた石原莞爾は、当時、後輩に向かって次のようなことを言っていました。
 近いうち、西洋諸民族の間で大きな動乱が必ず起きるが、日本は局外にあるべきこと。中国人の反日感は日本人の反省に基づく自重によって自然に消えてなくなるはずであること。軍は深く自重し、国際紛争の原因を誘発するおそれのあるような過ちを犯さないよう、よくよく注意すべきこと。などなどです。
  この石原の発言からも、日中戦争の開始と拡大は、当時の日本が取ってはならない選択肢であったことが分かります。
  ところがその後、日本は派遣部隊の増派を決め、戦火は見る間に華北一帯に拡大しました。1月後には上海でも戦闘が起こり、結局、日中全面戦争への道を開いてしまったのです。
  日中戦争の戦線の拡大に伴い、軍事費が増大し、増税と公債発行が繰り返されるようになりました。この年の秋ころからは、兵器弾薬も不足するようになりました。盧溝橋事件から約半年後には、弾薬庫はほとんど空の状態となっていました。
  ここに、日中戦争から太平洋戦争勃発にいたる時期、アメリカに比べていかに日本の国力、つまり国全体の力が劣っていたかが如実に分かる数字があります。当時の日本とアメリカの軍事物資の生産力を比較すると、平均して76.7倍の差があり、もっとも重要な石油にいたっては527.9倍もの差があったのです。
  これでは、まともな戦争などできるはずがありません。
  この数字から分かるように、当時の日本には、はじめからアメリカと戦争する力などなかった。このことは、実は陸軍も知っていました。
  陸軍省整備局戦備課が1941年3月25日に参謀本部へ提出した報告書では、こんなことを言っています。
  「無益な米英刺激を避け、極力米英ブロックの資源により国力を培養することが肝要である。」
きわめてまっとうな結論、というべきでしょう。
  ところが、1941年12月1日、御前会議において、対アメリカ、イギリス、オランダとの開戦が決定されます。これを受けて、12月8日、日本軍はマレー半島に上陸。同時に、連合艦隊がハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、その直後、アメリカ、イギリス、オランダ3カ国に宣戦布告がなされました。こうして、太平洋戦争が始まりました。
  開戦直後の12月16日に始まった第78帝国議会で、首相の東条英機は、次のような演説を行っています。
  「敵は領土は広大、資源も豊富で、之を以って世界制覇の野望を逞しくする米英両国であります。…随いまして長期戦は固より覚悟の上であります。」
  つまり、東条自身、短期間に決着をつけることははじめから想定していなかったのです。
  実際、日本軍が攻勢だったのは、開戦から僅か半年間だけでした。
  甲A7号証2枚目の地図をご覧いただきながらお聞きください。
  1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本軍は惨敗、さらにガダルカナル島の戦いで大敗北を喫し、1943年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退しました。
  ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いでの敗北は、単に戦局の転換をもたらしただけでなく、経済的にも大きな転換点となりました。
  すなわち、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いでの敗北により、以後米軍の攻撃による日本の船の沈没が激増したのです。そのため、南方の資源を海上輸送することが難しくなっていきました。
  このころ、大本営政府連絡会議で軍需省は、日本が戦争を続けられるかどうかについて、次のような説明をしています。
  「日中戦争が始まってから約7年になるが、大東亜戦争以後のきびしい状況をこれまで2年以上も支えてきたわが国の経済力は、その余力をもうほとんど失っている。」
  しかしそれでも、政府と大本営は戦争を続ける道を選びました。

3 マリアナ諸島の陥落による本土空襲の危険の現実化
  次に、2番目のポイントであるマリアナ諸島の陥落についてです。
  1944年6月、マリアナ沖海戦で日本軍はさらなる大敗北を喫します。7月にサイパン島が陥落、続いてテニアン島が8月に陥落し、それまで日本軍の拠点のひとつであったマリアナ諸島が完全に米軍の手に落ちました。
  このことは、後の空襲のことを考えたとき、大変重要な意味を持っています。
  このサイパン、テニアンの2つの島は、東京から約2,000キロの距離にありますが、この距離は、それまでの爆撃機では継続して航空ができない距離でした。
  ところが、マリアナ諸島が米軍の手に落ちたころ、米軍は、新型の高性能爆撃機、B29を既に完成させていました。この最新鋭機は、それまでの爆撃機に比べ、桁外れに巨大で、性能の高さも群を抜いていました。そのため、「超空の要塞」と呼ばれたのです。
  そして、このB29こそが、後に日本本土を何度も空襲し、日本全体を恐怖のどん底に叩き込んだ張本人でした。
  この「超空の要塞」B29は、最大積載量である9トン爆弾を搭載しているときでさえ、2,880キロもの継続航空が可能でした。要するに、マリアナ諸島の陥落は、日本本土が完全に米軍の空襲攻撃の射程範囲に入ったことを意味していたのです。
  マリアナ諸島の陥落から数ヵ月後、米軍は日本軍から奪取したマリアナ諸島に空軍の大航空基地を完成させました。こうして、米軍による日本本土空襲の準備が完全に整いました。
もしこの時点で、休戦が実現していれば、大阪空襲を含む後の本土空襲も避けられたはずでした。

4 戦争終結の最後の機会の喪失
  次に、3番目のポイントである近衛文麿の上奏文についてです。
  1945年3月以降の全国各地の空襲、沖縄戦、原子爆弾投下、ソ連
の参戦といった未曾有の被害を避けうる最後のチャンスとなったのが、近衛文麿・元首相の上奏文でした。
  近衛は「上奏文」の中で、日本は必ず敗戦するであろうこと、今必要
なことは戦争推進派を一掃して速やかに戦争終結の方法を考えるべきこと、などを天皇に報告しました。
  しかし、結局天皇は戦争推進派の意見に押され、近衛の意見は受け入れられませんでした。
もしこの時点で休戦が実現していれば、その後に展開されることになる全国各地での度重なる執拗な空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦などの悲劇は、すべて回避されたはずでした。
  すなわち、近衛の上奏文が受け入れられなかった1945年2月の時点で、その後に起こることになる数々の悲劇を避ける最後のチャンスは、完全に失われたのです。
その後、全国各地での空襲が激しさを増していた1945年6月、首相の鈴木貫太郎は、議会で次のような演説をしました。
  「近時、敵の空襲はますます熾烈となり、全国各地に多大の被害を生じている。戦災者も少くなく、まことに同情に堪えない次第である。しかも、空襲は今後さらに苛烈になることは必然である。だが、全国民一体となり、戦争完遂の一点に集中し、一人も残らず決死敢闘する時に国民道義は確立せられると確信する。」
  もはや、まともな判断とはいえないことは明らかでしょう。
  このような戦前の政策によって生じた被害を,日本国憲法は,「政府の行為」によって生じた「惨禍」であるとしました。そして,今回の書面で述べた戦争へ突入していく政策遂行,後に述べる国民に対する防空義務などの政策が,「惨禍」を招いた「政府の行為」の最たるものであり,日本国憲法の精神に真っ向から対峙するものであることは言うまでもありません。とすれば,国が,このような政策によってもたらされた自国民の被害を救済すべき責任を負うのは当然です。
  すなわち先行行為に基づき、条理上、戦災者を救済するべき作為義務を負っているというべきなのです。

以 上   .

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意  見  陳  述

2009年6月3日                  .
原告ら訴訟代理人               .
  弁護士  大   前     治    .

1 国民は、空襲から逃げることを禁止された
  被告国は、国民に対して「空襲からの退去方法」や「生命の守り方」を周知せず、空襲の危険性や焼夷弾の破壊力についての正しい知識を与えず、強度の防空義務・消火義務を課しました。国民が空襲から逃げることを、罰則をもって禁止したのです。このことが、原告らの空襲被害を拡大・深刻化させる重要な要因となりました。
  このことは、被告国に対し、戦後にその被害の補償政策を遂行する法的義務を生じさせる前提としての先行行為の重要な一部をなすものであります。
  また、原告ら民間人が課せられた防空義務の内容は、猛火が襲う被災都市の最前線から逃げずに危険な消火活動を行うというものであり、身体と生命に重大な危険を及ぼす命がけの行為という点で、軍人や軍属の業務にも比類するものである。特に,軍の上層部は空襲に関する十分な情報を得て、自らは危険を回避する方途を採り得たに対し、原告ら民間人は、危険に関する情報を何ら与えられないどころか、意図的に歪曲された情報を伝えられたのです。
  にもかかわらず、軍人・軍属が恩給などの補償を受けながら、民間の空襲被災者には補償が一切なされていないというのは、余りに不合理かつ不均衡であり、平等原則(憲法14条)に違反しています。
 この点について、順次述べていきます。

2 国民に課された防空義務
(1)「国民防空」の考え方
  「防空」とは、敵機発見のための防空監視や爆撃時の災害対応などが中心であり、本来は国家の軍事・警察部門が担う事項です。しかし、第二次世界大戦後期の日本政府は、広く国民に対して防空義務を負わせる「国民防空」(あるいは「民防空」)の施策を採用しました。
これは国民の生命や財産を守ろうとするものではなく、それらを犠牲にしてでも、都市および軍事拠点や生産基盤の防衛に国民を従事させるというものです。
  広く国民に防空義務を課す政策は、1937年(昭和12年)の「防空法」制定から本格化しました。この防空法は、1941年(昭和16年)10月に、一般市民に強度の防空義務を課す改正がなされました。
(画面1を示す)
     
  防空法は、一般市民に対して、空襲時における退去禁止(8条の3)や、監視行為への従事命令(6条の2)など広汎な義務を規定しています。
   特に都市からの退去禁止は、市民を空襲の下に縛り付けるものでした。法の文言上は、勅令で定められた者の退去を命じることができるとの形式でしたが、実際には、一部の例外を除く広汎な国民に退去禁止が義務付けられました。
(画面2を示す)
     
  この画面は、1941年11月18日付の新聞記事です。「働ける隣組員の都市退去を禁止」という見出しで、改正防空法の内容を伝えています。(甲A35)。「働ける隣組員」といいますが、全家庭・全市民が隣組に属しているのですから、要するに「働ける市民全員」が都市からの退去を禁止されたことになります。
  防空法施行令により、退去禁止の例外は乳幼児・妊産婦や防空義務に従事できない老人のみとされました。新聞もそのことを伝え、「たとひ六十歳前後の老人でも働き得る者は残らねばならない。」と報道しています(甲A37)。
(画面3を示す)
      
  わずかに、「防空活動の足手まとい」となる老人や幼児などだけが地方への疎開を認められました。この方針は、空襲が激化する戦争末期まで根本的に変更されることはありませんでした。
  画面に映っている新聞記事は、1944年12月11日の東京都の決定を報道するものです。防衛態勢強化のため「防空活動の足手纏ひとなる老幼、病者、妊産婦の人員疎開を重点的に強化」し、「軍需生産、防空業務に従事する人々はあくまで帝都に踏みとゞまり」、「これらの人員に対する疎開を抑止する」(甲A50)という方針がとられたのです。新聞記事は、「疎開足止め」という見出しでこれを伝えました。
  この退去禁止(8条の3)に違反した者には、懲役刑を含む罰則(19条の2第1号)が科せられました。そのことも大きく報道され、国民に対して強い威嚇効果を発揮しました。

(2)防空法による消火活動の義務付け
  また、防空法は、以下の規定により、国民に対して空襲時の応急消火の義務(8条の7)を課しました。
(画面4を示す)
     
  この画面にあるとおり、防空法第8条の7の第1項は、空襲時に建物の管理者・所有者・居住者などが直接に「応急防火を為すべし」と義務付けています。それだけでなく、第2項では、たまたま現場付近にいた人も「応急防火に協力すべし」と義務付けています。
  これに違反した者には500円以下の罰金(19条の3第1号)が定められました。500円といっても現在の500円とは違います。当時の教員の初任給は55円であり、その約9カ月分もの多額の罰金なのです。
  その他に防空法は、国が国民に対して建物の除去命令、建築禁止、移転命令、強制収用、その他の「防空上必要なる措置」を命ずることができると定めています(同法5条の2〜5条の10)。国民の財産権は大きく制限され、全面的な戦争協力および防空従事を義務付けられていたのです。

(3)全国民に防空・戦闘態勢を強いる閣議決定など
(画面5を示す)
     
  軍需工場を標的にした局所的な空襲が始まった1944年(昭和19 年)2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を閣議決定しました(甲A24)。国民が命を投げうって国を守る「戦士」として決戦の「覚悟」を求めたうえ、「空襲被害極限等ニ付テノ準備訓練ヲ徹底ス」と定めています。つまり、空襲の「被害極限」に際しても、避難ではなく防空活動を貫徹すべく「準備訓練」をすることが求められたのです。
  この閣議決定について新聞各紙は、「勤労防空を徹底」、「官も民も果敢に実践」などの見出しのもとで、「国民もかゝる政府の断乎たる決意に対し、皇国民としての忠誠心をもって不足を不足とせず飽くまで戦ひ抜くことが要請される」などと伝えました。国民は自己の生命ではなく国家を守るべきだと求められたのです。
(画像6を示す)
     
  さらに、サイパン島などが陥落して空襲の本格化が確実視された1945年(昭和20年)1月19日、政府は「空襲対策緊急強化要綱」を閣議決定しました(甲A26)。
  これは、老幼者の地方疎開は促進するものの、都市防衛に必要な人員については、「地方転出防止ニ関シ強力ナル指導ヲ加へ職域死守ノ敢闘精神ヲ昂揚セシムルト共ニ所要ニ応ジ防空法又ハ国家総動員法ニ依リ之ガ残留ヲ確保セントス」とするものです。人口流出を防ぐために、強制措置や罰則を含む防空法や国家総動員法の発動も辞さないというのです。この要綱では、「隣組」が1台ずつポンプを保有・整備して初期消火にあたることも義務付けられました。
  なお、このような国民防空体制を現実に作用させるためには、@住民を組織化して集団的に任務に就かせること、A空襲から逃げることを許さない相互監視の体制を構築すること、が不可欠です。そのために全国に「隣組」が組織化されたことや、隣組の運営実態・活動実態については準備書面で詳述したとおりです。

(4)国民に防火活動を強いるための「防空壕」政策
  都市部の各家庭では、いわゆる「防空壕」が設置されていました。その政策は、防空義務の法制化とともに重大な変化をとげます。
(画像7を示す)
     
  もともと政府は、爆弾に耐える堅固な「防空壕」を推進していました。
  内務省計画局が1938年(昭和13年)10月に発行した「国民防空の栞」には、庭または空地に堅固な材料で建設するべきと記載されていました。1940年(昭和15年)12月の「防空壕構築指導要領」においても、「防空壕」は原則として家庭の外庭か中庭に設置することとされていました。
  ところが1941年(昭和16年)の防空法改正により、空襲からの退去禁止や消火従事義務が明記された以降は、それに見合うよう防空壕政策も変化します。
  内務省防空局が1942年(昭和17年)8月に発表した「防空待避所の作り方」(甲A20・19頁)には、次のような記載があります。

 「(空襲時は)速かに手近の適当な場所に待避して一時危険を避け、爆弾や焼夷弾が落ちたその時にこそ、直ぐにとび出して行って防護活動を始めるやうにしなければなりません。
  即ち待避は決して単に逃げ隠れすることではなく、積極的に防護活動をするため、一時無駄な危害を避けて待機することです。」

  さらに内務省が発表した「防空待避所の作り方」(甲A20・20頁)と題する文書は、防空壕は家の外ではなく家の中に作るべきであるとして、次のように述べています。驚くべき内容です。

 「一般には家の中に作った方が、雨水の流入の虞れがなく、夜間や厳寒時の使用を考えてみても一層便利であると思ひます。なほまた外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考へます。」

  おそるべきことに、「落下する焼夷弾がよく分かるから家の中に待避所を作るべきだ」と述べているのです。しかし、頭上に落ちてきた焼夷弾は一瞬で家屋を猛火に包み、自分自身も火に巻かれるのですから、「焼夷弾の落下がよく分かる」などと言っている暇すらないはずです。
  さらに同「防空待避所の作り方」には、爆弾の破片の貫通を防ぐためには、土を80センチ盛り上げるか、布団を100センチ積み上げる、書籍・紙を40センチ積み上げるという方法で十分だと書かれています。
  しかし、このように布団や紙を積み上げても、爆弾や焼夷弾を防げるどころか、容易に貫通したり燃焼してしまうことは明らかです。極めて誤った対処方法が教え込まれたのです。

(画像8を示す)
     
  空襲時に長時間にわたり滞在できる安全な防空壕を作ってしまうと、外で消火活動をする者がいなくなるので、このように「すぐに飛び出せる待避所」、より正確にいえば「危険だから、すぐに飛び出さざるを得なくなる待避所」の設置を推奨・義務付けすることが国家の方針とされたのです。
  また、丈夫な防空壕を設置する必要性を強調することは、空襲の危険性を印象付けて恐怖心を流布することになってしまいます。そのため、「空襲は怖くない」という宣伝とあわせて、「待避所は簡易なもので十分」という宣伝がなされたのです。
  空襲の際には、頭上の建物が倒壊して下敷きになって死亡した方、火災による内部温度の急上昇により死亡した方、酸素不足により窒息死した方が多数にのぼりました。防空壕が簡易で、床下に設置されていたために生じた被害です。
  また、空襲直後に防空壕(待避所)から出て消火活動に従事しているうちに死亡した方も多数にのぼります。
  この点について、1945年3月10日の東京大空襲の4日後に開催された帝国議会での議員質問に対しても、内務大臣が空襲からの退去を認めない答弁をした事実も、準備書面および証拠で明らかにしています。


3 国民がおかれた状況
(1)空襲および焼夷弾の危険性についての誤った情報流布

(画像9を示す)
     
 政府は、全国民に防空義務を周知させるために、1941年(昭和16年)12月に「時局防空必携」という冊子(甲A17)を作成して都市部の全家庭へ400万部を配布しました。
 そこには、以下のような記載があります。

・「敵の兵力にも限りがあるから実際に空襲を受けるのは何処かの一部だけである。」
・「弾は滅多に目的物に当たらない。爆弾、焼夷弾に当たって死傷する者は極めて少ない。」
・「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」
・「空襲の被害が実害より大きくなるのは、むやみに怖れたり、油断をしたり、備えがなくて慌てて混乱するからである。 特に焼夷弾を消し止めないと大火災となり被害が大きくなる」
・「エレクトロン焼夷弾の火勢が衰えたものは屋外に運び出す。」
・「黄燐焼夷弾が飛散って柱はフスマ等に附いたときは速かに火叩(ひたたき)等で叩き落して消火する」

  ここで書かれている「火叩き」とは、竹棒の先に縄を十本程度取り付けた「埃はたき」のようなもの(甲A15・30頁の写真参照)です。実際には全く役に立ちませんでした。
(画像10を示す)
     
  これは、大阪府警察局が1944年12月に発行した「家庭・隣組防空指導書」(甲A33)の図です。右上の絵は、「焼夷弾が天井裏や屋根裏に落ちてきたら鳶口(とびくち)か長棒で突き落とす」というものです。左上の図は、焼夷弾が押入れなどに落ちたら、同じく「鳶口か長棒で移動する」という対処を指示するものです。いかにも悠長な対応ですが、瞬時に延焼が広がる焼夷弾の威力には到底効果がない方法です。1944年12月というと、すでに各地で空襲被害が出ている時期です。もちろん日本軍が自ら中国の重慶で投下した焼夷弾のことも熟知しているはずです。ところが、政府は国民に対して焼夷弾の危険性や正しい対処方法を教えることのないままに、この3ヶ月後に1945年3月の大阪大空襲を迎えることになるのです。
(画面11を示す)
     
  さらに同じ「時局防空必携」の昭和18年版には、この画面に映っているのと同じ「防空必勝の誓い」が掲載されています。それは「私達は御国を守る戦士です。命を投げ出して持場を守ります。」、「私達は命令に服従し、勝手な行動を慎みます。」というものです。国民が、このような「誓い」を強いられていたのです。
(画面12を示す)
     
  新聞紙上にも、「逃げるな守れ」(甲A60)などの見出しが大きく掲げられました。このようにして、防空義務から逃げ出せない制度とともに、それに従わざるを得ない社会状況が作り上げられたのです。

(2)大規模空襲の予測を国民には秘匿した
 陸軍省と海軍省が1943年(昭和18年)2月8日に策定した「昭和18年度 防空計画設定上の基準」(甲A29)には、以下のような記載があります。
(画像13)
     
  ・本年度中期以降、大ナル機数ヲ以テ反復空襲ヲ受クルノ虞アル
  ・空襲ハ来年度以降(つまり昭和19年以降)更ニ深刻且激化スヘキ趨向ヲ予想セラルル
  ・小型焼夷弾ノ多数投下及ヒ焼夷威力カ大ナル大型焼夷弾ノ混用投下(が予想される)
  ・本空襲判断ハ作戦上ニ及ホス影響ヲモ考慮シ、一般ニ対シ伝達ヲ行ハサルモノトス

  マリアナ諸島が陥落して米軍基地が作られるより一年半以上も前の時点で、すでに軍部は大規模空襲が必至であると判断し、消防隊による消防活動も困難となることを予測していました。およそ民間人の防空訓練などで対処できる訳がないことは明らかだったのです。
  ところが軍部は空襲の恐怖が周知されて都市から退去する者が続出することを避けるため事実を隠匿することとしたのです。同様のことは、1年後に陸軍省・海軍省が策定した「緊急防空計画設定上ノ基準」(甲A30)でも規定されています。

(3)空襲被害の実態を矮小化して真実を隠した政府
  政府は、実際に生じた空襲被害の実態を矮小化して虚偽の発表をすることにより、国民が空襲を恐れたり事前退去することを防ごうとしました。
  準備書面で詳述したとおり、大本営陸海軍部と政府情報局は、空襲については大本営が一元的に発表し、大本営発表以外の省庁は特別の必要がある以外は発表は行わないと協定しました。そして、報道機関に対しては、内務省の警察警保局が「敵襲時地方庁ニ於ケル報道措置要綱」(甲A31・346頁)を定め、強度の報道管制が敷かれることになりました。
  たとえば空襲による死亡者数や、被災地の町名以下の地名は原則として発表不可とされ、役所や工場の被害状況も発表不可とされ、「被害ノ状況ニ触ルヽコトナク移転先ノミヲ告示スルガ如キモノ」のみが許されました。道路・橋梁・電気の被害状況も発表不可とされました。
  1942年(昭和17年)4月18日に行われた最初の本土空襲の報道記事は、「敵機は燃え墜ち退散」、「バケツ火叩きの殊勲」などの見出し(甲A42の1)を掲げて、軍官民一体で戦闘に勝利したかのような報道をしました。89名の死者が出たことは隠され、「老人や婦人が一人で三、四個の焼夷弾を消止めた如きは非常な功績」との内務大臣の談話(甲A41の2)が報道されました。

  そして、その日の新聞には、「慎め詮索や憶測 軍を信頼・職場を守れ」という見出しのもとで、次のように記載しています。
(画面14を示す)
     
 「爆撃の状況を種々詮索したり或は憶測等によって流言蜚語をなす等は厳に戒めねばならない。作戦上のことに関しては一切軍に信頼して、一般国民はそれぞれ全力を挙げてその持場を守り、各自の任務を全うすることが必要である。」(甲A42の2)

  つまり、空襲を回避できなかった日本軍の防衛体制への批判を回避するため「軍を信頼せよ」と強弁し、空襲の恐怖が広まることを恐れたため「詮索はするな」と押しとどめ、空襲被害の真実や恐怖を語る者がいたとしても「流言蜚語だから信じるな」と流布したのです。
 (画面15を示す)
     
  そのほかにも、焼夷弾の威力について、名古屋空襲で新しく使用された250ポンドの大型焼夷弾について、「音の割に火は弱い」、「顔についたら衣類で拭え」といった新聞記事もあります。これは新聞記者が勝手に書いたのではなく、陸軍中部軍の赤塚中佐の談話です。
 (画面16を示す)
     
  焼夷弾の危険性を否定する政府発表や新聞記事も多数あります。これは、1942年4月18日の日本本土初空襲の記事です。「威力なき焼夷弾」などという見出しが大きく掲載されています。
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  1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を報じる記事です。大本営発表は「盲爆」、「まもなく鎮火した」などという内容であり、東一夜に約10万名もの者が出た事実は発表されませんでした。
(画面18を示す)
     
  同年3月13日深夜の大阪大空襲についても、大本営発表は「盲爆」とか、午前中に鎮火したというものであり、市街地が一面火の海となり多数の死者が出たことは全く触れていません。


(4)政府・軍部は、戦争継続のために空襲の脅威を隠した
  このように政府・軍部が事実を隠した理由は、国民が空襲を恐れて都市から退去することにより戦争継続が困難になることを政府が危惧したからです。
  それを示すように、陸軍省の佐藤軍務課長は、1941年(昭和16年)11月20日に衆議院において、「空襲を受けたる場合において実害そのものは大したものではない」、「狼狽混乱に陥ることが一番恐ろしい、またそれが一時の混乱にあらずしてつひに戦争継続意志の破綻といふことになるのが最も恐ろしい」と述べています(甲A36)。

4 最後に
  以上述べたように、原告らが受けた空襲被害は、決して回避しえなかった偶然の災害ではなく、多くの選択肢の中から政府が選択した政策の必然の結果として生じたものです。
  もし、というのは歴史では許されないかも知れませんが、日本政府が「国民の皆さん、安全な所に逃げてください。政府が安全な防空壕を設置します。地方へ逃げられる人は逃げてください。この戦争を終わらせるため平和外交の努力を尽くします」と言っていたら、どうだったでしょうか。原告らの被害は、そのような状況でやむを得ず受けた被害ではないのです。
  日本国憲法が施行された後も60年以上にわたり戦争の惨禍の痕跡を、放置することが許されるはずがありません。現在なお一般戦災者に対する補償の措置を講じていない被告の不作為は、条理上の作為義務違反を構成するのであって、被告の違法性は明らかというべきです。

以 上   .

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