東京都制は 防空活動 の明確化、そして 食糧配給訓練 から始まった
二重行政の解消が目的というよりも・・・
 戦争遂行のために始まった「東京都制」

始まりは昭和18年 

東京市を廃止
して「東京都制」が始まったのは昭和18年(1943年)7月1日。もとは10月1日の予定でしたが、この年の5月に「3ヶ月早めて7月に施行しよう」と前倒しされたのです。
戦争激化と物資窮乏、そして男手は兵隊にとられるなかで実施された東京都制。その当初は、どんな様子だったのでしょう。 

当時の新聞記事には「防空体制の完備」という言葉がよく登場します。右の記事は、都制施行当日のもの。「都民は銃後を守れ」という訓示が掲げられています。「銃後」とは、戦闘の最前線から見た国内のこと。つまり兵隊を送り出す拠点としての日本本土のことです。


それまで存在しなかった「都民」という言葉は、「銃後」という言葉とともに語られ始めたのです。


防空活動の管理を明確に!

初代の東京都長官は大達茂雄(のちの内務大臣)。彼が就任の挨拶で強調したのは「帝都の防空態勢」でした。
その言葉のとおり、東京都の発足とともに、「
防空活動は警視庁が管轄し、防空資材や建築管理は東京都が管轄する」という方針が明確化されます。「逃げずに火を消せ」という不動の方針のもとで、その管理体制が明確化されていきます。
下記の新聞記事は、それを報じたもの。都制発足当日に掲載されました。



発足3日目に決定したのは「食糧配給の防空演習」! 

東京都制が発足して3日目、7月3日には「食糧配給の防空演習」の実施が決定されました。戦局の泥沼化によって食糧事情も急激に悪化し、すでに食糧配給が始まっていましたが、さらに空襲への対応を訓練するというのです。

右の記事には、「
開庁の初仕事として帝都食糧関係の防空演習が大々的に挙行されることになった」、「この防空演習は都の食糧関係各課、中央卸売市場をはじめ食糧営団その他都下配給業者の団体等を網羅する官民一体の大掛かりなもの」とあります。

この翌年から東京都内の空襲が頻発。1年半後には一晩で10万人が死亡する東京大空襲が起こります。



現在とは状況が異なる・・・「大阪市の廃止」の理由にならない

上記の説明は、あくまで昭和18年当時の東京都制の一側面に過ぎません。しかし、少なくとも言えることは、東京都制は行政機構も人的資源もすべてを費やす
戦争遂行体制(総力戦体制)の一環だったということです。
さらに、次の点も現在とは大きく異なります。

 【現代との違い】
 ・地方自治の観点はなかった(現在は、憲法により地方自治が保障されている)
 ・住民の要望によって導入された制度ではなかった
 ・戦局悪化による物資窮乏と、兵役による人手不足が背景にあった
 ・人と資金を戦争へ投入する必要があり、行政活動は縮小の一途にあった

したがって、当時の東京都制を参考にして「大阪都構想=大阪市の廃止」を正当化することは不適切です。
大阪市では、2015年5月17日の住民投票により「大阪市の廃止」への反対が多数になりました。ところが再び2020年11月1日に住民投票が実施されることになりました。その是非の判断にあたっては、東京の「都制」が戦争遂行のために始まったものであり、決して地方自治の発展や住民の利益のために出発したものではないことを考慮する必要があると思います。

(文責 : 弁護士 大 前 治) 





*関連リンク*
      

      



書籍 『検証 防空法』

SYNODOS 「戦時中の防空法と情報統制」


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