第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)7月28日、アメリカ軍B29爆撃機62機が青森市に大量の焼夷弾を投下しました。死者は1018人。アメリカ軍の空襲は、国際法違反の非人道的行為です。 しかし、米軍だけでなく日本政府や地方行政の責任も重大です。防空法により「逃げるな、火を消せ」という国策を実施していたからです。 青森では、空襲の直前に「空襲を恐れて逃げた者は処罰する。7月28日までに自宅へ戻れ」と知事・市長が通告。その期限とされた日、戻ってきた市民が犠牲になりました。 ■ 逃げ始めた市民に「防空法で処罰する」 1945年7月14日、青森市の港湾地区が攻撃され、青函連絡船4隻が撃沈されました(沖合を含めた被害は12隻)。青森市民は「空襲の恐ろしさ」に直面し、郊外へ逃げ出します。親戚や知人宅へ移った人だけでなく、空地にバラック小屋を建てた人もいたそうです(東奥日報1945年7月18日付)。 当時は「防空法」という法律により、都市からの退去・避難は禁止されていました。そして政府は「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」と宣伝・指導していました。逃げることは、こうした法律や政府方針に反する行為でした。 そこで7月17日、青森県の金井元彦知事は、次のように述べたのです。
当時の「防空法」は、退去禁止に違反した者は最大で懲役6カ月と定めていました。県知事による処罰の予告は、御国の指導に反逆する「非国民」とされる恐怖とあいまって、市民に重圧となったことでしょう。
青森県知事に続いて、青森市長は次のように具体的な指示命令を発しました。7月28日までに避難先から戻らなければ町会・隣組の台帳から氏名を抹消し、食糧配給を停止すると発表したのです。
青森警察署の工藤六三郎署長も「戻ってこないと配給を止める」と告示しました(青森市 1972年発行「青森空襲の記録」28頁)。 物資窮乏の戦時下、食料配給を受けられないことは生活の糧を絶たれることを意味します。そのため、多くの市民が避難先から戻ってきました。 7月27日には、米軍機が「空襲予告ビラ」を青森市に投下。これを見た人は恐怖に震えました。 しかし、こうしたビラは直ちに警察官や警防団が回収し、「持っていてはならない、内容を口外してはならない」と命じられました。当時の内務省令により、所持する者は最大で「懲役3ヶ月」と定められていたのです(「敵ノ文書、図画等ノ届出等ニ関スル件」昭和20年内務省令第6号)。 空襲を予告されても、青森県・市は、「逃げるな、戻って来い」という方針を変えませんでした。
戻ってきた市民を襲った青森空襲。爆撃は7月28日の午後10時37分から1時間以上にわたり、市街地の88%を焼き尽くしました。死者は1018人、被害家屋は1万8千戸以上に及びます。 この後、日本は8月14日にポツダム宣言の受諾を通告します。もし戦争の終結が早かったら、もし避難が許されていたら、と悔やまれます。 非人道的な空襲をおこなったアメリカの責任とともに、空襲被害を拡大した日本政府の責任も問われるべきです。 筆者(大前)は、水島朝穂教授との共著「検証 防空法」の取材で青森市を訪問し、青森空襲を記録する会の皆様のご協力を得て空襲体験を聴き取りました。避難先から一緒に戻ってきた0歳と1歳の赤ちゃんが空襲で亡くなった、という方のお話も聞きました。二度と、このような歴史を繰り返してはならないと思います。
【参考文献など】 ・「青森空襲の記録」1972年/青森市刊 ・「白い航跡 青函連絡船戦災史」1995年/青函連絡船戦災史編集委員会 北の街社 ・ 青森空襲資料常設展示室(青森市中央市民センター内) 所蔵資料 ・ 東奥日報 1945年7月18日付、同年7月21日付(青森県立図書館 所蔵) 【関連映像・番組】 ・NHK「特報首都圏」 ・NHK「禁じられた避難」
*関連リンク* 上記の東奥日報の記事、青森市の通告、青森空襲の体験談は、 書籍「逃げるな、火を消せ」で紹介しています。
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